'ANO'I 選書棚
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“ちょっと気になる一冊”
を並べてみました
アンチソーシャルメディア
Facebookはいかにして「人をつなぐ」メディアから「分断する」メディアになったか
若きマーク・ザッカーバーグが「世界のつながりをより密にする」ことを基本理念に立ち上げ,世界五大テクノロジー企業にまで成長拡大したフェイスブック(現社名:Meta)が,”生活OS »をめぐる激しい覇権争いのなかで優位性を保ちながらも,今や世界中の様々な「分断」の進行に加担するメディアと堕し,民主主義の衰退と知的文化の劣化を招く張本人とまで批判されるようになってしまった状況がなぜ生まれたのか?
その理由と経緯を,長年にわたるソーシャルメディア研究の蓄積をもとに,社会科学,文化的先入観,フェイスブックとそれを取り巻く環境を評価する際に用いられる一般大衆の発言に対する著者自身の判断に基づいて詳らかにするとともに,メディアシステムがいかに人間関係,偏見,イデオロギー,政治権力によって形づくられるか,メディアがいかにそれらの現象を形づくるかを明らかにする。
とりわけ大きい問題は,新技術が深く浸透すると,従来の思考習慣に戻れなくなるのはもちろんのこと,少しの驚きはあるものの,社会が変容すると信じる方向に導くことだ。そして,経済的・政治的な要素を排除(区別)する技術に注目して,一連の複雑な変革にたっひとつの原因で説明をつけようとする。
あわせて問題となるのが,テクノロジー決定論者の意欲だ。過去の技術が見出した問題を修正しようと最新技術の導入をうながす。まるで,その戦略が人間のありように重大な影響与えうるかのごとく訴えるのだ。
私はこれを「テクノロジー原理主義」と呼んでいるが,この考えが世界を席捲しつつある。(p.44)
フェイスブックは,世界でもっとも普及した監視システムへと成長した。商業界においてもっとも見境ない,悪く言えば無責任な監視システムである。
2014年以前からフェイスブックをやっていて,ゲームやアプリを楽しんできたなら,フェイスブックはあなたのプロフィールやアクティビティ(活動)に関する情報だけでなく,「友達」の情報もたっぷり抜きとっている。(p.104)
フェイスブックとツイッターのユーザーのみならず,インターネット愛好者全般は,通信技術は開放的かつ啓発的なものであり,インターネットプラットフォームの相対的な開放性が言論の自由,思想の自由,民主的改革へと向かわせるものでなければならないという概念を受け入れた。これこそが「科学技術至上主義」(ルビ:テクノナルシシズム)である。
(中略)
テクノナルシシズムは民族中心的で帝国主義的だ。私たちと同じ道具と玩具を持ち,技能を備えれば,彼らの暮らしはたちまちよくなると思いこむのである。(pp.261‐262)
1950年代,60年代,70年代を通じて,神経症とその妄想的ヴァリアントとしてのパラノイア→スキゾフレニー→自閉症へと移行していく,ラカンの「鑑別診断論」の理論的変遷を通史的に丹念に検証しながら,「思想」の領域と「臨床」の領域両面から精緻な分析を試み,現代思想におけるラカンの位置づけの更新を企図した最新研究,最高峰の書である。
精神分析臨床において神経症と精神病の鑑別診断が重要なのは,精神分析家のもとを訪れた分析主体が神経症であるか精神病であるかによって,分析の導入から介入の仕方まですべてのやり方が異なってくるためである。(p.21)
現代の精神医学の疾患分類は,精神障害の苦しみと,人間に本来的ですらある状況の困難さの差異を消去してしまうような連続体を採用している。この流れは向精神薬のマーケットをまきこみ,メンタルヘルスの名目のもと際限なき適用が行われている。このようなメンタルヘルス政策は,病を普遍へと還元することによって,病の特異性=単独制を消去してしまっているのではないだろうか? (p.441)
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861~1947)の哲学を現代的に読み直す試みを通して,新しい哲学(思弁的実在論,新しい唯物論,オブジェクト指向存在論など)の潮流,パラダイムを批判的に検証しながら,メイヤスー,ハーマン,ブラシエらの代表的な理論家の議論を相互の関係をふまえて丁寧に解説する。
この二つの思考体系の間に共鳴や結合(つながり)を見いだす最大の理由はこうだ。ホワイトヘッドも思弁的実在論者のどちらも,長きにわたり西欧近代の合理性の核心であった人間中心主義という想定に疑問を投げかけているという点である。こうした問いかけは,ぼくらが今後,生態学的な危機に見舞われそうな時代,人間の運命が他のありとあらゆる種類の存在の運命と深く絡みあっていると思わざるをえない時代には差し迫って必要とされる。(p.5)
~こういうわけで,ぼくはメイヤスーによる根元的な偶然性という視角と,ハーマンによる不変の真空=空虚に封じ込められた諸対象-オブジェクトという視角の両方に対する代替案として思弁的美学を提起する。このような思弁的美学はまだ形成の途上にある。カントやホワイトヘッド,ドゥルーズたちだけが,ぼくらにその基礎を与えてくれる。(p.230)
『ネットが社会を破壊する』
情報通信工学と現代思想・メディア論という異種分野をそれぞれ専門領域とする著者が,古今の関係研究者の知見を駆使しながら,「国を挙げてのネット礼賛」状況と化した現代日本へ警鐘を鳴らす。
(本書では電子通信網に由来する様々なサービスの総称として「ネット」という単語を使う。(p.10))
Twitterは,やれ人脈形成だの,信頼を勝ち取るだの,情報を共有するだのという,成果志向のしょぼい伝言ツールに堕落した。私たちは,人類の宝となるべき重要な道具をいとも簡単に国規模の「おもしろ伝言板」「電子的『はみだしYOUとPIA』」に貶めてしまった。(p.254)
それはすでに始まっているけれど,私たち(もちろん私自身も含めて),その本当の意味に気付いていない。私たちが今より数段,愚かになり,良心を失って悪人になり,熟慮が失われて知識が貶められ,この社会の格差が進行し,正義が失われて偏見がはびこり,人々は意見を同じくする集団に群化する,ということが何を意味するのかということを。(p.255)
『ブルシット・ジョブ』
―くそどうでもいい仕事の理論
デヴィッド・グレーバー
酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹 訳
岩波書店
(2020年7月29日 第1刷発行)
ISBN 978-4000614139
専門分野である人類学領域の枠を超え,現世界でもっとも重要かつ挑発的で刺激的な思考を展開し,精力的な執筆活動を行っている研究者による最新作。
空疎な仕事の膨大な集積とそれをとりまく壮大な儀式からなる「(ネオ)封建制社会」として現代世界を提示してみせる。この人類学者の手にかかれば,「啓蒙化」されたはずの現代世界も,人類のこれまでの社会と変わらず(あるいはもっと悪く),いっぽうで,不条理と滑稽にあふれているが,他方で,サディズムと服従,そして「魂の傷害」に満ち満ちた「未開社会」としてあらわれる。
(「訳者あとがき」p.411)
わたしたちの社会では,はっきりと他者に寄与する仕事であればあるほど,対価はより安くなるという原則が存在するようである。~客観的な尺度をみつけることは困難である。しかし,なんとなく感じとるためのかんたんな方法はある。ある職種の人間すべてがすっかり消えてしまったらいったいどうなるだろうか,と,問うてみることである。かりに看護師やゴミ収集人,あるいは整備工であれば,もしも,かれらが煙のごとく消えてしまったら,だれがなんといおうが,その結果はただちに壊滅的なものとしてあらわれるであろう。
(中略)ただ,プライベート・エクイティ~やロビイスト,広報調査員,保険数理士,テレマーケター,裁判所の廷吏,リーガル・コンサルタントが同じように消え去ったとして,わたしたちの人間性がどのような影響をこうむるのかは,わたしにはあまりはっきりしない(いちじるしく改善するのではないかと疑っている人間が数多い)。(pp.7-8)
『なぜ世界は存在しないのか』
クァンタン・メイヤスーやグレアム・ハーマンらが牽引する哲学の最新トレンド「思弁的実在論 speculative realism」と連携しつつも,独自の「新しい実在論 der Neue Realismus」を提唱する”哲学界のロックスター”ことマルクス・ガブリエルの代表作。
「意味の場 fields of sense=Sinnfeld」の理論を駆使しながら,「世界は存在しない」というテーゼを具体例を用いてわかりやすく解説する。
わたしたちの人生は,さまざまな出来事の去来する地平,それも時間的なごく限られた地平のなかで生きられるものです。しかし忘れてはならないのは,子どもの頃にはとんでもなく重要だったのに,今では些事にすぎないものもあるということです。〜わたしたち自身の人生のなかでも,さまざまな関心の連関は絶えずズレていきます。わたしたちは,自己のイメージも環境のイメージも変化させ,その瞬間ごとに,それ以前には存在しなかった状況に適応していくからです。
ひとつの全体としての世界も,これと似た事情にあります。そのような世界が存在しないのは,いっさいの連関を包摂する連関が存在しないのと同じことです。すべてを記述し尽くす世界の規則や公式は,たんに存在しません。それは,わたしたちがそのようなものをいまだ見出していないからではありません。そのようなものがそもそも存在しえないからです。(p.21)
『反教養の理論』
―大学教育の錯誤
ドイツ語圏を越えて数か国語で翻訳出版された,この種の学術書としては異例のベストセラー。近頃めずらしく刺激的な書であり,「教養」を語るうえで重要な示唆を与えてくれる。
一度格づけメカニズムの虜になると,精神分析の有名な強迫観念を思われる兆候がたちまち現れてくる。目に入ったものはみな,格づけに供されることになる。………現代の教育の専門家は取り組むすべての問題に,格づけリスト形式の解答を付与せずにはいられない。授業の質はどうか? 検証して格づけだ! 良い大学はどこだ? 評価と格づけだ! 学問的権威はどこにある? 出版団体の格づけだ! どの研究プロジェクトに注目しようか? 評価を取り寄せて格づけだ! 事物そのものではなくて,それがいかがわしいリストのうちに占める位置だけが考慮の対象となる。(p.72)
『増補 責任という虚構』
社会心理学,認知心理学,社会学,精神分析学,脳科学などの実証的な知見をもとに,ホロコースト,死刑,冤罪などにかかわる膨大な事例を駆使し,「責任」概念を支える「主体」の自由意志や「正義」の普遍性の無根拠性を明らかにする。「責任」は因果律に基づかない社会的虚構と断じ,社会的動物としての人間の本質を鋭くえぐる快作。
誤報にすぎなかったと全員が知ってもパニックは収まらない。危険はないと私も隣人もわかった。だが,その事実を隣人が知っているかどうか私には不確かだ。だから逃げざるをえない。隣人も思いは同じだ。危険が去った事実に私はいまだ気づいてないかもしれない。だから逃げる方が安全だ。逃げる必要がないと全員が思いながら仕方なしに逃げ続ける。根拠がなくとも集団現象はいったん動き出すと当事者の意志を離れて自律運動を始める。責任・道徳・経済市場・宗教・流行・言語など様々な集団現象はこのように機能する。(p.337)
『開かれ』
—人間と動物
ご存知イタリア現代思想の巨人による小著ではあるが内容濃密な一冊。バタイユの無頭人(アセファル),コジェーブのスノッブ,ユクスキュルの環世界,ハイデガーの倦怠,ベンヤミンの星座的布置(コンステラツィオンKonstellation),フーコーの系譜学等々,古今の言説を縦横無尽に駆使しながら,人間と動物のあいだの排除と包摂をめぐる政治学のなかで現出した”例外状態”を描き出す。
われわれの文化において,人間とは(中略)たえず動物と人間の分離と分節化の帰結であり,そこでもまた,この操作の二項のうちの一方のほうが賭けられている。われわれの人間概念を左右する機械を機能させないようにするということは,それゆえもはや新たな(中略)分節化を模索することを意味しないだろう。むしろそれは,中心に空虚を見せてやること,すなわち,人間と動物を―人間のうちで―分割する断絶を見せてやることなのであり,この空虚に身を曝すこと,つまり,宙づりの宙づり,人間と動物の無為に身を曝すことにほかならない。(p.158)
『ネット・バカ』
―インターネットがわたしたちの脳にしていること
原題は,日本語で「浅瀬」を意味する『THE SHALLOES』。
翻訳書名で内容が誤解されやすい面があるものの,至って真摯かつ骨っぽい専門書である。
メディア史の諸相や,最新脳科学の知見が動員されていて読み応え十分。
オンラインでわれわれが,何を行っていないかも,神経学的に重大な結果をもたらす。
〜ウェブページをスキャンするのに費やす時間が読書の時間を押しのけるにつれ,リンクをあちこち移動するのに使う時間が静かに思索し熟考する時間を押し出すにつれ,旧来の知的機能・知的活動を支えていた神経回路は弱体化し,崩壊を始める。脳は使われなくなったニューロンやシナプスを,急を要する他の機能のためび再利用する。新たなスキルと視点がをわれわれは手に入れるが,古いスキルと視点は失うのである。(pp.170-171)
『つながりすぎた世界』
―インターネットが広げる「思考感染」にどう立ち向かうか
本書のキモは「過剰結合(over connectivity)」(あるシステムの内外で結びつきが高まりすぎたあげく,少なくとも一部にほころびが生じた状態を指す)という概念にあるが,日々「つながること」(=接続)を強迫されている私たちに,つかの間の「解放」(=切断)をめざすためのヒントを提供してくれている。
盤石に見えた社会を,予測のつかない新たなフェーズへといたらせるものは何だろうか。その原因となるのはたいてい,「正(ポジティブ)のフィードバック」と呼ばれるものである。(p.30)
本書ではフィードバックという言葉を,工学的な意味合いで用いる。すなわち正のフィードバックとは「ある変化がさらなる変化を促す」という意味であり,ここでは結果の望ましさは関係ない。〜まさに正のフィードバックこそが過剰結合を引き起こすもっとも重要な要素だからである。(p.31)
正のフィードバックは環境に均衡をもたらすのではなく,フィードバックを強め,変化を増幅・加速させていく。〜正のフィードバックがおおきくなるほどフィードバック・ループも増幅し,より大きくより急激な変化をもたらす。(p.32)
『私たちが,すすんで監視し,監視される,この世界について』
『Liquid Surveillance:A Conversation』(2012)の全訳。今日の流体的で不安定な「ポスト・パノプティコン」時代の「監視の展開を位置づける一つの方法」である「リキッド・サーベイランス」(流体的監視)について,e−mailを使用しながら,監視社会研究の第一人者であるライアンからの質問に,代表作『リキッド・モダニティ』で著名なバウマンが答えるという形式で行われた対談集。
監視が問題となる際に,多くの人々が最初に思い浮かべるのがプライバシーの喪失ですが,プライバシーはそのもっとも重要な犠牲者ではなさそうです。たしかに,匿名性や秘密性,プライバシーの問題も無視すべきではなりませんが,監視は公平や公正,市民の自由,人権の問題とも結びついています。その理由は,私たちがこれから見るように,善かれ悪しかれ,今日の監視が主に行なっているものが社会的振り分け(social sorting)だからです。(ライアン「はじめに」pp.25−26)
監視は「配慮ケアへの適用」を表明することで,道徳的な後ろめたさを免れようとするのかもしれません。しかし,それは代償を伴うものであり,まったく道徳的に潔白ということはありません。監視であることを止めなければ,そしてそれが正当にも結びついている道徳的な疑念を払わなければ,それは避けられないのです。私たちは依然として,相反する欲求を叶えようとしているのです……。たとえ,技術革新に伴ってそれを解決する方法が見つかったと表明されたとしても。(バウマン,pp.179−180)
『日本の起源』
歴史学“界”のスター,『〈つながり〉の精神史』(講談社)の東島誠と『中国化する日本』(文藝春秋)の與那覇潤の対談集。邪馬台国から第二次安倍内閣までを6つの時期に区分して,「通史」ではなく「問題史」を,「歴史の起源」ではなく「起源の歴史」を縦横無尽に語り通す。
東島 「まっとうな人」という言い方は,人権に敏感な人からは批判を受けそうな表現ですが,むしろ身分制社会というのはそういう発想が平然と出てくる時代なんだという点を理解しておかなければならない問題ですね。私の言う線引きや「仕分け」の思考を考えるうえでも重要です。(中略)
ただ一般に,史料というのは,往々にして〈指さす側〉が〈指さされる側〉について悪しざまに書いたものしか残らないわけで,つまりは「弱い者いじめ」の弱いほうだけが有徴化される(ラベルが貼られる)わけです。(pp.178-179)
與那覇 〜儒教的な徳治主義とは本来,天子をはじめとする治者の側に道徳を求めるもので,だから宋朝以降の科挙制度も,「官吏になりたいなら道徳を身につけろ,そうでないやつは知らんけど」というしくみだった。(中略)
ところが明治日本の場合は,西洋から輸入した国民皆教育とセットで儒教化しているから,「上から下まで,国民みんなが徳を備えて美しい国を作りましょう」という話になっていく。(p.253)
『感情化する社会』
当代, 数少ない”真っ当な”「研究者」の一人である著者が,「これから起きることへの予感の言語化」への関心のもと,「今起きつつある事柄」を「感情化」というわかりやすいキーワードによって説明を試みる野心作。
「感情化」とはあらゆる人々の自己表出が「感情」という形で外化することを互いに欲求しあう関係のことを意味する。理性や合理でなく,感情の交換が社会を動かす唯一のエンジンとなり,何よりも人は「感情」以外のコミュニケーションを忌避する。つまり「感情」しか通じない関係性からなる制度を「感情化」と形容するものだ。(p.9)
〜日常のなかで人は「感情労働」を仕事においても日常においても求められ, そして求め, そのようなことばのみが日々, 規範化していく。
こういった「感情」は, 理性的で社会的な経済学の分析や歴史学の集積というよりは, 瞬時に「感情的」に理解できるものを好む。それが世界中で進行中の「反知性主義」という, かろうじての「知性」さえ凌駕する「感情」の正体である。その「感情」の前にジャーナリズムも文学も批評も沈黙している。(p.49)