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'ANO'I 抜萃堂



■比較的新しめの本から“為になった箇所”を抜書きします


(引用文中の「太字」と「見出し ❏」は管理人が入れたものです)





教養主義復権論.jpg

教養主義復権論


仲正昌樹


明月堂書店

2010年1月20日 初版第1刷 発行

978-4903145266



(明月堂書店さんが取り組んでいる「本屋さんの学校」という連続企画の一環として,三省堂神保町本店において,2009年上半期に3回にわたって開催された「学問の復権」という講座の音声記録を文章化して,加筆修正を施したもの)

❏「教養」のこと

~ドイツ語で「教養」のことを,〈Bildung〉と言います。「人格」を「形成する bilden」ということです。「人格を形成する」と日本語で言うと,何か宗教的,あるいはスピリチュアルな修行をするようなニュアンスになってしまいますが,「教養」によって形成される「人格」というのは,必ずしも宗教的,形而上学的なものではありません。様々な古典的テクストのスタイルを知ったうえで,それを“自らのもの”として使用することです。不可侵の“精神”を直接的に伝授されるというような話ではない。(中略)

日本の場合,簡単に修養主義に流れ込んでしまったのは,古典を読むことが,“単なる知識の集積”と理解されてしまって,それとは別の次元で,著者との魂の触れあいのようなことを求めるという発送が出てきてしまったからではないでしょうか。

 カルチャースクール」などでやっているような,雑学的な,つまり体系立っていない諸知識のため込みを,「教養」だと勘ちがいしている人が――大学を卒業した年輩の人も含めて――圧倒的に多いわけですから,そういう意味での単なる“キョーヨー=カルチャー”とは別の次元で,「人格」を求める傾向が出てくるのは仕方ないかもしれませんね。(中略)

 大学での「教養」教育を批判している人の多くは,雑多な知識がたくさんあって,会話の話題が豊富なことを,「教養」だと思っているのではないでしょうか。お笑い芸人がクイズ番組に出て気の利いた回答をするのと同じような感覚で,「教養」を捉えてしまっている。(pp.115-116)

❏〈humanitas〉とは

 ~「教養」という概念のもとになったのはラテン語の〈humanitas〉という言葉です。これは「人類」とか「人間性」を意味する〈humanity〉の語源でもあるわけですけれども,このラテン語の〈humanitas〉は,我々が現在「人間性」だと思っているものとはかなりちがっていて,もともと自由人である市民の「人としての嗜み」のような意味合いで使われていました。「自由人」であるということは「市民」であることの前提ですね。その「嗜み」とはどういうことになるかというと,ポリスの公的領域に出てきて言論活動をするために,他者を説得するためのいろいろな技法を身に付けているということです。雄弁術を習得するとか,論理学的に自分の考え方を整理しておくとか,文法的に語るとか,そういうような事柄ですね。そういう公的領域での言論活動のための嗜みとして〈humanitas〉というものが成立したわけです。(p.26)

❏「自由七科」について

 身に付けておくべき素養の中身は次第に整理され,古代末期から中世にかけて,「自由七科」,英語では〈seven liberal arts〉と言われるものが成立します。「教養」に一番近い意味の英語は,〈liberal arts〉ですが,それはここから来ています。では,何故〈liberal〉という形容詞が付くのか? 中身が「リベラル」ということではなくて,自由人のための〈art(技法)〉だからということなんですね。「自由七科」の具体的な中身は,文法,論理学,修辞学,算術,幾何,音楽,天文。この音楽というのは今の音楽ではなく,「何故,音が鳴り響くのか」を探求する自然科学的なものだったようです。〈humanitas〉=「人間らしさ」を支えるための基本的な素養として,この七つの科目がピックアップされた。

 それが中世に入ると,どうなるのか? 中世のヨーロッパの大学というのは基本的に聖職者養成機関であったわけですけれども,学部としては神学部と法学部と医学部があった。(中略)

この専門の三つの学問を学ぶ前に,準備的なものとして「自由七科」を学ぶということになった。それで,意味が変わってきたんです。もともと自由人としての「活動」としての嗜みとしての〈humanitas〉だったのが,大学で専門に入る前の知的な訓練としての〈humanitas(教養)〉へと意味がズレてくるんですね。(p.27)



人間の条件入門講義.jpg

ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義



仲正昌樹


作品社

2014年6月15日 第1刷発行

978-4861824791


❏〈humanity〉と人文主義

〈humanity〉は,基本的には,「人間性」という意味ですが,これを複数形にした〈humanities〉は「人文諸科学」という意味になります。また日本語の「ヒューマニズム」には通常,「人道主義」の意味しか念頭に置きませんが,世界史の教科書にあるように,ルネサンスの時代の〈umanisumo=humanism〉は,「人文主義」の意味でした。(pp.8-9)

❏本来の「ヒューマニズム」とは 

〈humanitas〉というのは,当然,〈humanity〉の語源のラテン語です。古代ローマで,「人間らしさ=市民として身に付けておくべきたしなみ」という意味合いで使われていました。具体的には,修辞学とか文法,論理学など,弁論術に関わる素養を指していました。他の市民たち=公衆の前で自らの考えを披露し,相手を説得することが,市民のたしなみだったわけです。そうした意味での〈humanitas〉に関連するキケロ(前106~43)やセネカ(前4~後65)等のテクストを読むのが,本来の意味での「ヒューマニズム」です。(p.9)

❏〈privacy〉について

~〈private〉と同じ語源から発生した,英語の〈privative〉という形容詞は「欠如している」とか,「消極的な」という意味です。それから〈deprive A of B(BからAを奪う)〉という高校で習う言い方がありますね。これも綴りから見て,〈private〉と関係していることが分かります。

 つまり〈privacy〉というのは,欠如した状態だったのです。何が欠如していたのかというと,公的性格です。公的領域の光を欠いた状態が,私的領域である家での生活だったわけです。

(p.105)

❏〈object〉の成り立ち

 ラテン語の動詞〈obicere〉は,「~に向かって投げる」「提示する」という系統の意味と,「~に対峙する」「~を妨げる」という系統の意味を持っています。「投げる」を意味する動詞〈icere〉と,「~に向かって」という方向性,あるいは「抵抗」もしくは「対峙」を意味する接頭辞〈ob〉から構成されています。この〈obicere〉の過去分詞形〈objectum〉から〈object〉が派生したわけです。つまり,〈object〉の元の意味は,「○○に対峙するように投げ出されたもの」ということだったわけです。(pp.221-222)

❏〈subject〉の成り立ち

~〈subject〉の語源である〈subiectum〉――〈subjectum〉とも綴ります――は,〈sub + iectum〉で,〈sub〉は, 〈submarine〉とか〈subway〉の〈sub-〉と同じで,「下へ」という意味です。つまり,〈subject〉は,「下へ投げ出されてあるもの」だったわけです。英語の辞書を見ると,「臣民」という意味が出ています。では,それがどうして「主体」とか「主語」の意味になったのかというと,全ての「根底にあるもの」=「基体」を意味するアリストテレス用語の〈hypokeimenon〉が中世スコラ哲学で〈subjectum〉と訳されたのがきっかけです。それをライプニッツ(1646-1706)が,「(人間の)魂」という意味に転用したことで,「自我」と結び付くようになりました。それを更にカントが,自我の内にある,認識や実践を行う「主体」という意味に転用したわけです。(pp.223-224)


 ❏「story」と「history」

「物語 story」と「歴史 history」はいずれも,過去の出来事を語ることを意味するギリシア語の名詞〈historia〉から派生した言葉で,近代初期までほぼ同じ意味で使われていました。18世紀以降,客観的な法則に従って発展する「歴史」という概念が生まれ,それが,虚実入り混じった「物語」と区別されるようになり,それに対応して〈story〉と〈history〉が使い分けられるようになりました。(p.326)









動きすぎてはいけない.jpg

動きすぎてはいけない

ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学


千葉雅也


河出書房新社

2013年10月30日 初版発行

978-4309246352



❏接続と切断

 哲学は,たいていは,絡まったものごとに有意味な切断をして,ものごとを理解するための営みであると思いなされている。それに対し,「非意味的」な切断も起こってよいとは,ひどくいい加減なことにおもわれるかもしれない。が,重要なのは,「意味をもちすぎる切断」の回避である。それは,定まった論理(ロゴス)の専横を避けて,加/減に,バランスに配慮することであり,正確には,配慮しすぎもしないという無配慮のいい加/減さであり,それによってものごとを分けて=分かってしまう,ということではないだろうか。意味をもちすぎる理解ではない別のしかたでの分かってしまうこと。このことを,改めて哲学しなければならないと思われるのである。(p.22)

 

 接続と切断,コネクシオンとクピュール。

 あるいは「連合」と「解離」,アソシアシオンとディソシアシオン。

 つながりと分かれ――のあいだの「とet」に,ドゥルーズ(&ガタリ)の哲学は住っている。

 まず,切断A――権力の強いるしがらみからあなたを切断すること,それと正面から闘わないこと。そして,接続――しがらみの側方に,勝手に接続されていく関係のリゾームを見いだす。のみならずさらに,切断B――そのリゾームをあちこちで切断すること。リゾームを「有限」にすること,様々に部分的な「無関心 indifférence」――これが「意味をもちすぎない」ことだろう――の刃によって。その上で,再接続し,そしてまた切断し,再接続するのである。

 切断Aは,ツリーからリゾームへの切断であり,切断Bは,リゾームそれ自体の切断であると言える。切断Aをするならば,切断Bも必須である。逃走は,だから少なくとも二度,加速されなければならない。一度目は,しがらみを笑い飛ばすイロニー的な初速として。二度目は,そこから伸びるリゾームを,この加/減でよしと,笑って済ませるユーモア的なトップ・ギアとして。(p.23)

❏私たちの孤独を奪うソフトな権力

 新しいメディアによる「連関」の増殖において人々は,「画一的な情報」に囲まれた「自閉的」状態に陥っていく……こうした浅田(管理人註:浅田彰「スキゾ・カルチャーの到来」『逃走論』,31頁を受けて)の警戒は,常時インターネットから情報=広告を受け続けている――「ウォークマン中毒」からスマートフォン中毒へ――今日の生活にするどくヒットしそうである。ドゥルーズもまた,生活の隅々を支援するという形で拡大する「管理社会」のソフトな権力を批判していた。愛の拡大を自称する管理社会=福祉の拡大が,私たちの孤独を奪っていく。(p.34)

❏シラケつつノリ,ノリつつシラケること

~接続する知という理念は,九十年代末以後はインターネットの普及によって日常化し,凡庸化される。その過程のただなかで,浅田の批評はいつでも,比類なく高速の切断性を意志していたように思われる。

 

  要は,自ら「濁れる世」の只中をうろつき,危険に身をさらしつつ,しかも,批判的な姿勢を崩さぬことである。対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に,対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ,真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位=エレメントであることは,いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば,シラケつつノリ,ノリつつシラケること,これである。(浅田彰『構造と力』6頁)

(pp.35-36)

❏動き「すぎない」のであって「動かない」のではない

私たちは,「生成変化を乱したくなければ,動きすぎてはいけない」という箴言を導きとしてきた。生成変化するにあたり「動きすぎない」というのは,過剰に自己破壊し,無数の他者たちへ接続過剰になり,そしてついに世界が渾然一体になることの阻止である。非意味的切断のシャープな線によって,接続の,関係づけの過剰化にブレーキをかける。これが,関係の外在性を認めることに相当する。~多元論を採ること。区別された事物のあいだで,仮の連合を,解離を,再連合を実験すること。動き「すぎない」のであって「動かない」のではない。(p.226)




人間が永遠に〜.jpg

人間が永遠に続くのではないとしたら


加藤典洋


新潮社

2014年6月25日 発行

978-4103312123


❏「しないことができる力」と「非の潜勢力」

(管理人註:半角=は原文中ではルビとなっている部分です)

この図式(管理人註:ジョルジョ・アガンベン『パートルビー 偶然性について』で取り上げている,ライプニッツが『自然法の諸要素』でまとめている様相の諸形象の図)が面白いのは,ふつう可能性,不可能性,必然性,偶然性といわれ,二つの独立したカテゴリーに属していると考えられている四つの様態が,一つのカテゴリー内で互いに関係しあう,四つの力能として示されている点である。(中略)それぞれ,すること+できる,すること+できない,しないこと+できない,しないこと+できる,である。この四つの様態が一つのカテゴリーのうちにあることがよくわかるが,このうち,アガンベンは,最後の「偶然的なもの」のもつ「しないことができる」力に注目し,これをアリストテレスの潜勢態=デュナミス(種子のような現勢化されていない可能態)と結びつけ,非の潜勢力と呼ぶ。(pp.315-316)

アガンベンによれば,力能には,「することができる力」のほかに,「しないことができる力」があり,その「しないことができる力」(非の潜勢力)は,「することもしないこともできる力」(偶然性の力)として,アリストテレスの「存在することができる力」という概念(潜勢態=デュナミス)のうちに含有されている。

 アガンベンは,こうしてライプニッツの偶然性を手がかりに,アリストテレスの潜勢力(潜勢態)の概念のうちに,その内奥にひそむまだ十分に光をあてられていない重要な概念として,非の潜勢力ということをいうのだが,それはイタリア語では,潜勢力のpotenzaに対するimpotenzaあるいはpotenza di nonと呼ばれる。(p.318)

 ところで,この非の潜勢力(potenza di non)が,アガンベンにおいては,「できない」こと(impotenza)の意味と,背中合わせの存在となっていた。そのことを『バートルビー』の訳者高桑和巳が,同書中の訳注に,このような付記を残す形で示唆している。

 

   アリストテレスに由来する哲学用語としてのイタリア語impotenzaないしpotenza di non(ギリシア語 adynamis)は本書では「非の潜勢力」と訳している。通常は,「存在したり為したりすることができない」こと,つまり「無能力」「潜勢力のなさ」と解される語だが,アガンベンのテクストでは「存在しないことができる,為さないことができる潜勢力」と同一視されている(87~88頁)

(p.364)

❏「できない力」の肯定

「しないことができる力」の向こうに,背中あわせで「できないこと」の力というべきものがあるとすれば,「しないことができる力」は必ずしも「することができる力」の否定からその力を汲み出すだけでなく,「できない力」の肯定からも,その力を引き出すことができるだろう。

 「できないこと」にも力がありうることについては,たとえば日本画の現代画家山口晃が,「一度,自転車に『乗れる』ようになってしまうと,『乗れない』事をできなくな」ると,面白いことを述べている(『ヘンな日本美術史』61頁)。いちど自転車に「乗ることができる」力を得てしまうと,「乗れない力」が失われるというのだ。(p.366)

❏ゾーエ―とビオス

アリストテレスは,人間は政治的ないきもの=ポリティコン・ゾ―オンだといった。意味は「ポリスを生きる・ゾーエ―」である。このうち「ゾーエ―」は,生き物としての人間の生をさし,もう一方の「ポリスを生きる」つまりビオスが,政治的存在としての人間の生をさしている。ハンナ・アーレントは古代ギリシャの社会を生き物としての人間の生が営まれる家空間(オイコス)とそれぞれの家空間から家父長が出てきて市民として言論をたたかわせる政治的空間(ポリス)に分けてみせる(『人間の条件』)。それでいえば,ゾーエ―はオイコスで営まれる私的な生存と生殖のためのヒトの生,他方,ビオスは,ポリスで営まれる公的で政治的な人間の生を意味している。

 このそれぞれの家空間とそこから出てくる家父長たちが集合して営む政治空間が,やがて権力を行使される客体空間と権力を行使する主体空間とに二つに割りふられ,正対する。すると,権力の目に人民がソーエ―(生き物)として現れる一方,権力というビオスの領域に,反作用としてゾーエ―が進入してくる。そうフーコーはいうのである。そこに登場するのが生政治なのだと,アガンベンがここでの展開を説明している(『ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生』7~9頁)。

(pp.346-347)




社会は絶え夢を見ている.jpg

社会は絶えず夢を見ている


大澤真幸

朝日出版社

2011年5月20日  初版第1刷発行

978-4255005836




❏歴史を記述するということ

歴史を記述することは,必然的に,最後の審判の視点を,――最後の審判の日の神(=第三者の審級)の視点を――前提にせざるをえない,ということなのです。歴史を書くということは,その時点で,まるで最後の審判の日の神になったかのように自らを思いなし,そこから過去を見直すことです。歴史を記述する者は,したがって,好むと好まざるとにかかわらず,むろん,彼の信仰にかかわらず(無神論者であろうがなかろうが),最後の審判の日の神として歴史に対している,ということになるのです。(中略)

どうして,過去の事実を記述するだけのことが,最後の審判の神の判決と同じ意義を担うのか? 歴史の記述とは,現在のわれわれがこのようである,そこまでの過程を物語ることです。したがって,どんなに深い過去のことを記述しているときでも,必然的に,「現在のわれわれ」が歴史の終極であり,目的であるものとして,前提にされざるをえません。先ほど,最後の審判は勝者と敗者の判別だと言いました。では,歴史の記述においては,勝者(救われる者)に対応しているのは何なのか。それは,「現在」という終極(=目的)をもたらすのに,有意味なことをなしたと見なされた者,有意味なこととされた出来事です。歴史を記述するということは,「現在」という暫定的な終極(=目的)をもたらすのに貢献した人物や行為や出来事を選択し,拾い上げ,配列することです。現在という終極が目的であったかのように,それに対して寄与したものとして,人物や出来事を配置する。したがって,現在へと至る一連の系列の記述の中に登場しているということ,そのことがすでに,最後の審判において,勝者として認定されたことを含意しているのです。その際,多くの人物,多くの出来事,多くの試みが,現在がこうであることに何の貢献も意味もなかったこととして,ゴミのように捨てられます。こうして,記述において無視され,捨てられたことが,最後の審判の敗者に対応します。(pp.286-287)



参考URL


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