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'ANO'I 味読館


名著と言われるテクストの“おいしそうな部分”をじっくりゆっくり味わっていきます




歴史の概念について.jpg

文献A 『[新訳・評注]歴史の概念について』


鹿島 徹 訳・評注

未来社

2015年7月10日 初版第1刷発行

ISBN 978-4624011932




ボードレール他5篇.jpg

文献B 『ボードレール 他五篇: ベンヤミンの仕事 2』


野村 修 翻訳

岩波文庫

1994年3月16日 第1刷発行

ISBN 978-4003246320



ベンヤミンコレクション.jpg

文献C  『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』


浅井健二郎・久保哲司  翻訳

ちくま学芸文庫

1995年6月1日 初版第1刷発行

ISBN 978-4480082169



今村仁司.jpg

文献D 『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読 』


今村仁司

岩波現代文庫

2000年11月16日 第1刷発行

ISBN 978-4006000318



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文献E 『ヴァルター・ベンヤミン―「危機」の時代の思想家を読む』


仲正昌樹

作品社

2011年3月20日 第1刷発行  

ISBN 978-4861823176 


現代思想の断層.jpg

文献F  『現代思想の断層―「神なき時代」の模索』


徳永 恂

岩波新書

2009年9月18日 第1刷発行

ISBN 978-4004312055



  第一回目として, W.ベンヤミンの思想的遺書とも言える作品『歴史の概念について Über den Begriff der Geschichte』を取り上げます。

   訳出の仕方によって微妙な差異が生じますので,「テーゼ」部分については,上掲『文献A』『文献B』『文献C』の同一箇所を比較対照するようにします。


 また,それら三冊に加えて,上掲『文献D』『文献E』『文献F』の解説も逐次参照しながら,読みを進めていくことにしたいと思います。




ベンヤミン.jpeg

ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミン

Walter Bendix Schoenflies Benjamin

(1892年7月15日~1940年9月26日)



まずはじめに,ベンヤミンの人生とはどのようなものであったのかを,『文献A』(pp.19-21),『文献D』(p.187)を参考にして,簡単な年譜の形で見ておきましょう。


略年譜


1892年 ベルリンの裕福なユダヤ人美術商の家に生まれる。

1912年 フライブルク大学に入学,哲学を主専攻とする。翌々年にかけて

ベルリン大学でも学ぶ。

1914年 ベルリンの自由学生連合の議長となる。第一次世界大戦勃発とともに,親友クリストフ・フリードリヒ・ハインレが恋人ともに自死し衝撃を受ける。

1915年 ミュンヘン大学へ移籍。ゲアハルト(のちゲルショム)・ショーレムと知り合う。

1917年 ドーラと結婚。ベルン大学へ移籍。

1919年 ベルン大学で「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」で博士号取得。エルンスト・ブロッホと知り合う。

1921年 クレーの絵「新しい天使(Angelus Novus)を購入。ユーラ・コーンに接近し,ドーラとの結婚生活が破綻する。

1924年 ラトヴィア出身のコミュニスト,アーシャ・ラツィスと知り合い強く惹かれる。

1925年 フランクフルト大学に,教授資格論文「ドイツ悲劇の根源」を提出するが,拒否される。

1928年 11月から翌年1月末までベルリンでアーシャと同棲。

1929年 アーシャを介してベルトルト・ブレヒトと知り合う。

1930年 ふたたびパリに滞在。離婚が成立する。

1931年 前年からのうつ状態のなかで自死を考える。

1932年 ニースで自殺を決意し遺書もしたためるが,決行に及ばず。

1933年 フランクフルトからジュネーヴに亡命中の社会研究所(Institut für Sozialforschung)から初めて原稿依頼を受ける。ナチス政権成立とともにパリに亡命。

1934年 夏,デンマーク・スヴェンボルのブレヒトのもとに滞在。11月から翌年2月末までサン・レモ在住の前妻ドーラのもとに滞在。

1936年 再びスヴェンボルのブレヒトのもとに滞在。

1938年 パリのアパートに移り,翌々年のパリ脱出までそこに落ち着く。

ジョルジュ・バタイユ,ピエール・クロソウスキーらと親しく交際。


『文献A』によれば,この略年譜から次のようなことがうかがえるとしています(pp.21-22)。

(1)ベルリン屈指の資産家の家に生まれながら,第一次世界大戦後のインフレとそれに続く大恐慌,離婚訴訟で財産を失い,亡命先では困窮生活にいたったこと

(2)親友ハインレの自死が,生涯の大きな心の痛手となっていたと思われること

(3)第二次世界大戦後に著名となる多くの思想家を友人としてもったものの,また何人かの女性に強く惹かれながらも,いずれも持続的・安定的な関係には結実しなかったこと

(4)教授資格取得に失敗して大学教職の道はあきらめ,文芸批評をはじめとした売文で身を立てなければならなかったこと

(5)フランクフルト社会研究所の研究協力者となって,資金や発表の場所を得ながらも,それが逆に彼の自由な思想表現を束縛するものになったこと


そして,1939年8月23日。

当時の誰もが予想だにしなかった「独ソ不可侵条約」(別名「スターリン=ヒトラー協約」)締結の報に,ベンヤミンは大変な衝撃を受けます。引き続く第二次世界大戦の勃発へと至る流れは,彼の境涯を大きく変えることになるのです。


ベンヤミンの生涯最期の二年をより詳しく眺めてみましょう(『文献A』pp.22-27)。


1939年 2月4日にドイツ国籍を剥奪され,無国籍者となる。ポール・ヴァレリーやアンドレ・ジッドの助力を得てフランスへの帰化を申請するも,これは最期の時までかなわず。ショーレムにパレスチナ入国ビザの手配を打診したり,米国への移住を思い立ったり,スイスへの逃亡を企てたりなどするがいずれも実現することはなかった。

また,この年には,1934~35年頃から交流を深めていたハンナ・アーレントとハインリヒ・ブリュッヒャーを中心とする討論の夕べに定期的に参加している。

1940年 ドイツ軍のパリ侵攻のため,パリを陥落直前に脱出してルルドに逃れる。8月はじめマルセイユの米国領事館におもむくが,出国ビザが下りず失敗。

(当時のマルセイユは,米国への出国を求める人びとが多く集まっており,アーレント/ブリュッヒャー夫妻などの知人・友人と再会することができた。「歴史の概念について」の原稿のいくつかをアーレントに渡したのも,このときである)

そこでスペインのビザが失効する期限が迫るなか,フランスとスペインの国境を徒歩で越える決心をする。スペイン国境の町ポルトボウに到着するが,地元警察によりフランス出国ビザをもたない人間はフランスへ送還すると言い渡され,ホテルの一室で携えていたモルヒネを過剰摂取して自殺を図り,翌朝息を引き取る。



ベンヤミンとはどのような思想家だったのでしょうか?

 ベンヤミンは,哲学と文芸批評の間の学際的仕事をした人,と言えます。無論,哲学者で文学的エッセイみたいなものを書く人は,もっと昔からいます。哲学論文を書く作家や批評家ももっと昔からいました。クロスオーバー的な活動をする人は特段珍しくない。ただ,文芸批評や美術批評に象徴されるような,他者が書き残した言語,あるいは他者の使用した記号を「解釈」するという行為が哲学的にどういう意味を持つか,また哲学自体が言語という媒体を介して営まれていることについてどう考えるか,といった問題を掘り下げて考えたり,そうしたクロスオーバー的な探求を文章の上で「実践する」というのは,それほど昔からあることではないと思います。19世紀初頭にドイツの初期ロマン派が,哲学と文学の深い相関関係について掘り下げて考えるような仕事をやりかけましたが,あまりまとまらないうちに頓挫してしまいました。ベンヤミンは,初期の論文で,初期ロマン派の「批評」理論の意義を再発見し,その発想を自分のその後の仕事にも応用しました。それと同じようなことを少し遅れてブランショデリダリオタールラクー=ラバルトなどフランス現代思想の論客たちも試みるようになりました。ベンヤミンは「批評」の哲学的意味,「哲学」の批評的意味を相互に交差させながら探求する,極めて現代思想的な営みの先駆だった,と言っていいと思います。実際,デリダやラクー=ラバルトは,ベンヤミンから直接的に影響を受けています。

『文献E』pp.13-14)

『歴史の概念について』はどのような作品なのでしょうか?

  まずこの作品は,ベンヤミンのほぼ「絶筆」であろうと思われるものであること,とともに「未定稿」として遺されるにとどまったものだということです。

 

  「現段階で存在が確認されている原稿は,~それにはおおまかにいって,自筆原稿が二点,タイプ原稿が四点」『文献A』p.28)あります。


①アーレント手稿:ハンナ・アーレントがマルセイユでベンヤミンから受け取り所蔵したものと言われ,現存する最古の自筆原稿。

②タイプ稿1:1940年にジョルジュ・バタイユがベンヤミンから預かった草稿群のなかにあったもので,1981年にジョルジョ・アガンベンがバタイユの未亡人から入手したもの。

③フランス語手稿:1941年と47年にニューヨークの社会研究所に届けられた大量の遺稿群のいずれかに含まれていたと思われるもの。

④タイプ稿2:1941年に社会研究所に届けられた遺稿群に含まれていたと推測されているもの(タイプ稿3も同様)

⑤タイプ稿3:妹ドーラ・ベンヤミンがタイプして成立したと推測されるもの。

⑥タイプ稿4:ベンヤミン没後に米国でグレーテル・アドルノ(管理人注:テオドール・アドルノの夫人)によりタイプ原稿化されたもの。

『文献A』pp.28-31より)


いずれの原稿も,他の原稿にあるものが欠けていたり,逆に他にないものを含んでいるなどして,どれも完成稿というべきものではない,とのことだが,一応は「②タイプ稿1」がもっとも真正性が高いと見られ,『文献A』においてもこれを底本としている旨断りがある。

『文献A』p.33)


 そうした複雑な事情をふまえて,この作品がどのような内容のものなのかを次に見ていきましょう。


  「歴史の概念について」は十数篇のテーゼ形式をとっている。各テーゼは,それぞれユニークな語り口にも現われているように,ほとんどが別々に構想されたもののように見える。と同時に~ここで底本とするタイプ稿1において配列を入念に検討し,個々のテーゼの位置を確定していることも確かだ(例外は末尾の第二のテーゼⅪである)。

『文献A』p.73)

 構成面で言えば「歴史の概念について」は,付録A・Bを含めて20の断章から成り立っている。従来これは,アフォリズムという形式へのベンヤミンの愛好癖,未整理の遺稿という原稿の性格からして,ランダムな集積と考えられてきた。しかし現在の時点で,原稿の成立事情,準備されながら採録されなかった草稿などを見渡してみると,この20の断章は,けっして任意,無造作な集積ではなく,ベンヤミン自身の意図にもとづいて,かなり周到に選択され,配列されたものではないか,という思いを禁ずることができない。そして一見無造作な断章の配列の裡に,彼の秘められた構成的意図を発掘することは,60年代以降にやかましく論じられた。

『文献F』p.128)


  ヴァルター・ベンヤミンが書いた最後のものといわれる「歴史の概念について」(これまでしばしば「歴史哲学テーゼ」とよばれてきたもの)は,分量からみればごくわずかの文章の集まりの小論文にすぎない。それは十八のテーゼまたは断章からできている。しかもこれは完成した著作ではなくて,いつか書くであろう著作のための覚書ともいえる。その意味では,「歴史の概念について」は,幻の著作のための「内容説明つき目次」である。それは草稿にすぎず,詳細な説明も展開もないのだから,ざっと読むかぎりでは,何を言おうとしているのか,さっぱり理解できない。

 彼の書くものは総じて難解であるが,なかでもこの遺稿は,はじめて世の中に登場して以来,難解をもってなる謎めいた書き物である。

『文献D』p.3「はじめに」)

  1940年にまとめられた。これ以後に書かれたベンヤミンの文章は,短い一篇の書評文しか知られていないから,これはかれの絶筆といってよいだろう。初めて印刷されたのは,かれの没後二年,1942年に,亡命中の社会研究所がロスアンジェルスで刊行した謄写版の『ヴァルター・ベンヤミンの記念に』においてだった。これが「歴史哲学テーゼ」という名で広く知られたのは,1955年に刊行された二巻本の『ベンヤミン著作集』が,ベンヤミンが手紙や口頭ではこの文章をそう呼んでいたという理由で,その標題を採用したからである。原稿にはその標題がなく,幾種からの原稿のうちには標題のないものと,「歴史の概念について」と標題を付されたものとがあるので,1972年から刊行されはじめた本格的な『ベンヤミン全集』は,標題をもとに戻している。

『文献B』p.355「解説」)







それでは,いよいよテーゼの中味に入っていくことにしましょう。


テーゼⅠ


『文献A』


〔以下では訳者の判断で適宜改行をほどこしている。原文の各テーゼにはいずれも改行はない〕

  よく知られている話だが,チェスで対戦相手のどのような指し手にも巧みな手で応え,かならず勝利をものにするよう造られているという,そういうふれこみの自動人形が存在したといわれる。それはトルコ風の衣装をまとい,水パイプを口にした人形で,大きな机のうえに置かれたチェス盤の前に座っていた。うまく組み合わされた鏡の作用によって,この机はどこから見ても透明であるという錯覚を生み出していたが,じつはチェスの名手である背の曲がった小男がなかに座っていて,人形の手を紐であやつっていたのだった。

 哲学においてこの装置に対応するものを思い描くことができる。〈史的唯物論〉と呼ばれるその人形は,いつでも勝利を収めることになっている。神学の助けを借りていれば,この人形はどのような相手とも楽々とわたりあうことができるのだ。もっとも周知のようにその神学とは,今日では小さく不恰好で,そうでなくとも人目についてはならないものなのだが。(p.44)

『文献B』


 よく知られている話しだが,チェスの名手であるロボットが製作されたことがあるという。そのロボットは,相手がどんな手を打ってきても,確実に勝てる手をもって応ずるのだった。それはトルコふうの衣裳を着,水ぎせるを口にくわえた人形で,大きなテーブルのうえに置かれた盤を前にして,すわっていた。このテーブルはどこから見ても透明に見えたが,そう見えるのは,じつは鏡面反射のシステムによって生みだされるイリュージョンであって,そのテーブルのなかには,ひとりのせむしのこびとが隠れていたのである。このこびとがチェスの名手であって,紐で人形の手をあやつっていた。この装置に対応するものを,哲学において,ひとは想像してみることができる。「歴史的唯物論」と呼ばれている人形は,いつでも勝つことになっているのだ。それは,誰とでもたちどころに張り合うことができる――もし,こんにちでは周知のとおり小さくてみにくい,そのうえで人目をはばからねばならない神学を,それが使いこなしているときには。(p.327)

『文献C』

 周知のように,チェスの名手である自動人形が存在したと言われる。この自動人形は,相手がどんな手を指してきても,その一局を確実にものにする応手でそれにこたえるように作られていたというのである。トルコ風の衣裳を身にまとい,水煙管(ルビ:みずギセル)を口にくわえた人形が,大きなテーブルに置かれた盤を前にして席に着いていた。複数の鏡を組み合わせたシステムによって,どの方向から見ても,このテーブルは透明であるかのように錯覚させたのだった。本当は,テーブルのなかにチェスの名人である傴僂(ルビ:せむし)の小人(ルビ:こびと)が潜んでいて,その小人が紐で人形の手を操っていた。ところで,この装置に対応するものを,哲学において思い描くことができる。〈歴史的唯物論〉と呼ばれるこの人形は,いつでも勝つことになっている。この人形は誰とでも楽々と渡りあえるのだ。ただし,今日では周知のように小さくて醜くなっていて,しかもそうでなくても人の目に姿を曝(ルビ:さら)してはならない神学を,この人形がうまく働かせるならば,である。(p.645)


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