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 'ANO'I  ALBUM

ちょっとした情報や面白そうな話を

取り上げてみました

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
『ブラックホーク』昔噺

『MIZZ先生がイラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の著者

MIZZ先生こと”みずかみよしのり”が 

渋谷道玄坂百軒店伝説のロック喫茶『ブラックホーク』を語り尽くします

●ミュージシャンたちのまったりな溜まり場

『ブラックホーク』

鈴木さんと本多さん.jpeg
Musician

   渋谷の街は,1973年に公園通り(当時は区役所通り)に渋谷PARCOが開業するまで,オジサンたちが家路につく前のひととき羽を休める,どちらかと言えばひっそり地味な街だったんです。

 宮下公園手前の「のんべい横丁」を筆頭に,東急本店横丁へ入る「栄楽街」,東急プラザと井の頭線ガードに挟まれた「渋谷中央街」,大規模再開発が進行中の「桜丘町」周辺,そして我が『ブラックホーク』が在す「百軒店」など,個性あふれる飲み屋街が点在していました。

 道玄坂裏界隈は,1970年の地番整理によって円山町(の一部)から道玄坂二丁目へと表記が変更されるのですが,地元の古老のお話によると,道玄坂裏の地形がポッコリしたお山状になっていたことから「円山」と呼ばれたんだそうです。

 そんな円山(町)=道玄坂百軒店の有名ラーメン店『喜楽』の前の路地に踏み入り,通称道玄坂小路へ通じる変則的な石組み造作の階段を降りて行くと,台湾料理の名店『麗郷』の脇へ出ます。

 この辺りは,かつて“絶対に一人で立ち入ってはいけない”それはそれは怖い場所と言われていましたが,1975年にセレクトショップの名店『ミウラ&サンズ』が階段の中程にオープンし,普段パルコ公園通りを闊歩している風情の人たちがこちらにも現れ出るようになってくると,何とも怪しげで危なそうだった一角も一気に明るく変容していきます。

 あの伝説的ロックバンド「はちみつぱい」の本多信介さんと鈴木慶一さんが,『ブラックホーク』を抜け出して『喜楽』のもやしそばとかタンメンをすすった後,「イイね! NICEフレーズ!」と掛け合いながら曲作りのアイディアを練り上げている,なんて光景を思わず空想してしまうのも,道玄坂百軒店ならではの魅惑的な時空間ゆえのことなのでしょう。

 当時『ブラックホーク』には,決まってギターを背負ったギター小僧風や(やがて名を成す方も含む)シンガーソングライターを自称する面々が,溜まり場宜しく3,4人は常駐していました。

 と言って,決して皆が寄り集まるわけではなく,ボブ・ディランやエリック・クラプトン,ジミー・ペイジといった憧れのスーパースターに思いを馳せながら,各々己だけの音の世界に没入していました。

 手前味噌バリバリのチョイト格好つけ過ぎの締めになりますけど,彼らもきっと,道玄坂百軒店の地を代表する音楽文化の発信地でもあった“ロック喫茶”『ブラックホーク』の居心地に引き寄せられていたのかもしれませんね。

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
『ブラックホーク』昔噺

『MIZZ先生がイラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の著者

MIZZ先生こと”みずかみよしのり”が 

渋谷道玄坂百軒店伝説のロック喫茶『ブラックホーク』を語り尽くします

●ヒッピー文化は

『ブラックホーク』でも花開いた?!

ブラックにもヒッピーが.jpeg

 1968年あたりから『ブラックホーク』が“ロック喫茶”と言われるようになってくると,店内でリクエストされる曲も,ヒッピームーブメントの一大エポック「サマー・オブ・ラブ(Summer of Love)」で中心的役割を果たしたグレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインのようなサイケロックと呼ばれた音楽の他にも,アル・クーパーやマイク・ブルームフィールドなどのブルースロック,ディープ・パープルやブラック・サバスに代表されるハードロック等々,まさに「Anything goes.」何でもありの状態となっていきました。

 フリーも,来日した影響もあってかなりの人気がありましたし,ブラインド・フェイスやレッド・ツェッペリンに至っては1日4,5回以上リクエストされる有り様で,「それは今かけ終わったばかりで他のリクエストもいっぱいあるんで~」と苦しい言い訳で凌ぐことも頻繁でした。

 

 ところでヒッピーには,7つの「決め事」があるとよく言われていて,これらの条件をすべて満たしていれば,立派な(?)ヒッピーとなることができたようです。

①男女ともロン毛 男は鼻下やあごにヒゲ

(男性でも腰近くまで髪を伸ばしている人もいました! 山下達郎さん然り,「はちみつぱい」の本多信介さんもですね!)

②ヘアバンド(花飾りだとなおgood!)を付けている

③カラフルでゆったりしたシャツを着ている

④フレアジーンズを履いている

⑤ロックミュージック(サイケロック)を愛している

⑥シンボルマーク(反戦平和のピースマーク)を装着している

⑦自然素材で手作り感のあるアクセサリーを身にまとっている

 

 その当時の『ブラックホーク』のお客さんたちの中にも,上記ヒッピーの「掟」(?)①④⑤⑦の四点については見事クリアという方が大勢いましたけれども,結局それを超えるものではありませんでしたね。

 時に,ヒッピー最前線の新宿辺りから流れてきたのか,「エッ! 何をどうしたらそうなってしまうの?」と目を剥くような奇抜なファッションで,ウェイトレスさんから“お化けちゃん”とか“フリフリちゃん”とかの隠れニックネームを頂戴してしまうような方が来店し,ヒッピー文化の薫りを十分に振りまいていく場面もあるにはありましたが,『ブラックホーク』店全体の雰囲気はと言いますと,そんな様子をはにかみながら冷静に眺めているお客さんが主立っていたように思います。

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
『ブラックホーク』昔噺

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渋谷道玄坂百軒店伝説のロック喫茶『ブラックホーク』を語り尽くします

●『ヒッピームーブメントと

『ブラックホーク』界隈の想い出

ヒッピームーブメント.jpeg

 ヒッピームーブメントというのは,1960年代後半にアメリカ西海岸サンフランシスコを中心に拡がりを見せた,ヒッピーと呼ばれた若者たちによる社会変革運動のことを言いますね。

 そんなヒッピームーブメントですけど,当時の世界情勢を色濃く反映していて,ある人はベトナム戦争反対を叫び,またある人は公民権運動や女性解放運動への参加を訴えるなど,政治的な主張を伴うケースも多かったのですが,総じて“LOVE! PEACE! FREE!”を謳い文句に,旧来の価値観に対抗するカウンターカルチャー の一翼を担った10代から20代の若者を中心に普及していきます。

 当時のサンフランシスコは,音楽,ドラッグ,フリーセックス,芸術表現等々サイケデリックな文化現象の中心地でしたが,1967年夏にアメリカを中心に巻き起こった一大ムーブメント「サマー・オブ・ラブ(Summer of Love)」を契機に,ヒッピー文化はサンフランシスコから,ニューヨーク,ロサンゼルス,シカゴ,フィラデルフィアなどのアメリカ国内の大都市をはじめ,カナダ,ヨーロッパの各都市へと急速に拡がっていくことになります。

 ブームは,当然のようにまたたく間に日本へも到来。『ブラックホーク』がジャズ喫茶としてスタートした1966年頃には,新宿のジャズ喫茶に早くも伝わっていたようで,以来,長髪に髭ヅラ,よれよれのベルボトムジーンズにサンダル履き,あるいはエスニック風のゆったりワンピースに花飾りヘアバンドといった一風珍妙ないでたちの若者が街中に出没するようになるのです。

 今日のような若者文化最前線といった様相はゼロに近かった渋谷にその波が訪れるのはしばらく経ってからの話になりますが,ヒッピームーブメント前夜の『ブラックホーク』界隈はどうだったかと言うと,とりわけ百軒店の裏手から井の頭線の神泉駅へと抜ける道筋などは,現在世界一とも称される「ラブホ街」へ変貌していく下地が出来つつある光景ばかりが際立っていたようでした。

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
『ブラックホーク』昔噺

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渋谷道玄坂伝説のロック喫茶『ブラックホーク』を語り尽くします

●『ブラックホーク』の壁には

サム・ハスキンスの写真が飾られていました

サム・ハスキンスの写真集.jpeg
Pink Sugar

  ジャズ喫茶全盛の頃は,どこもかしこも壁面の飾りは著名なジャズミュージシャンのライヴ写真と相場が決まっていました。

 『ブラックホーク』もご多分に漏れず,1966年初めから1968年あたりまでのジャズ喫茶時代には,高名なジャズフォトグラファー中平穂積氏による,コルトレーンマイルスモンクウェイン・ショーターらの汗飛び散る白熱のライヴ写真が壁いっぱいにどーんと飾られていました。

 ロック喫茶へと変貌を遂げてからは,ビートルズの「レット・イット・ビー」のフォトアルバムをばらして,額に順次収めるようにしていましたが,1972年頃になって,次第にシンガーソングライター系やウェストコート系,そしてブリティッシュトラッドやウッドストック派と言われるミュージシャンが多く聴かれるようになってくると,壁の飾りもその時代に相応しいものへと移り変わっていきます。

 そこには,南アフリカ出身の写真家サム・ハスキンス(1926~2009)の代表作『Cowboy Kate』の諸作品が飾られるようになったのです。

 『Cowboy Kate』は,1964年に発行されたモノクロ写真集なのですが,全世界でなんと100万部を売り上げた大ヒット作で,発表当初から今日に至るまで,多くの写真家やアーティスト,クリエイター,デザイナーたちに影響を与え続けていると言われる写真集です。まさに,当時の文化スタイルを華やかにリードしたスタイリッシュな作品群であり,『ブラックホーク』の店内の雰囲気を否応にも高めてくれたきわめて大切なアイテムでした。

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
『ブラックホーク』昔噺

『MIZZ先生がイラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の著者

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●あのスーパースターも

『ブラックホーク』の常連だったんです

スーパースター.jpeg

 『ブラックホーク』の店内は,実際にはイラストのように明るくはなく,50人で超満席となってしまう空間の照明は,畳一畳ほどの窓から差し込む光だけに頼るという心細さでした。そのうえ,来店されるお客さんほぼ全員がスモーカーという時代,お客さんの表情を包み隠すように目線の先を始終どろーんと漂っている紫煙が薄暗さを増幅していました。

 

 さて,『ブラックホーク』が,“ジャズ喫茶”から“ロック喫茶”へと大きく舵を切った1966年~67年頃から1970年代にかけて,あの山下達郎さんも常連だった,と言うと驚かれる方が多いと思います。

 自身のレコードをドッサリ抱えて来店しては,「コレ適当にかけてください」とお店に預けていくといった仰天の行動を繰り返すうち,ご常連の仲間入りをしてしまったわけです。 

 TOKYO FMの「山下達郎のサンデーソングブック」(https://www.tfm.co.jp/ssb/)の番組内でしばしば『ブラックホーク』の話題が取り上げられている,という話を知人からよく聞かされました。

 松本隆さんなども,対談や著作に『ブラックホーク』の名前がよく登場してきますし,他にも近藤房之助さんや昨年亡くなった鮎川誠さんのようなビッグネームも常連だったのです。

 なかでも印象深いのは,「はっぴいえんど」と並んで日本語ロックの先駆者と言われる伝説的バンド「はちみつぱい」(蜂蜜ぱい,初期の頃はハチミツパイと表記されたことも)のメンバーです。

 バンドの中心人物鈴木慶一さん(ボーカル・ギター・ピアノ)(1975年に「ムーンライダース」を結成,1981年に高橋幸宏さんとのコンビで「THE BEATNIKS』を結成),本多信介さん(ギター),和田博巳さん(ベース)らは,ほぼ毎日のように顔を出していましたし,和田さんに至っては,高円寺に(自身絶対にやりたいと言っていた)『ブラックホーク』風ロック喫茶を開店させてしまう熱の入りようでありました。

 彼らはお店に居ても“オーラ”を消しつつ,いつもいつも決まったようにレコード室に一番近い“指定席”に座って,仲間に目配せしながら一,二時間を過ごします。

 腹が減ると「ちょっと出てきます」とぼそっとひと声かけて,いったん店外へ。多分『喜楽』のタンメンかもやしそば,『大芽園』の焼きそば&餃子か,カレーの残り香がする時は『ムルギー』といった処だったのでしょう。

 食事が終わって店に戻ると,「どうも」と言いながら,何事もなかったかのようにそのまま元の席へ着席。

 まあ,なんとも“おおらか”で“のんびり”した時代だったんですねえ。

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
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●『ブラックホーク』のレコード室

第2回イラスト.jpeg
White Structure

  1960年代に隆盛を極めた“JAZZ喫茶”では(“名曲喫茶”なども同様ですが),その心臓部と言えるオーディオ機器の仕様にはどの店も力を入れており,覇を競う感が大いにありました。常連客もそれは至極当たり前のことと心得ていて,「新宿の△△には新型セットが入った」「渋谷の✕✕が改装してM社の新しいオーディオになった」といった類の情報には,敏感に反応していたものです。

 どの店舗も造作からして通常の喫茶店とは異なり,一歩店内に足を踏み入れると,まずドーンとターンテーブルとアンプが目に飛び込んできて,奥には巨大スピーカーが鎮座するというのが大体のパターンとなっていました。

 『ブラックホーク』も例にもれず,扉を開けて入店すると,すぐ右手にあった3.3㎡弱のガラス張りのレコード室より先に,GARARD401型の2台のターンテーブル(カートリッジはSHURE:型不明)とマランツセブンタイプの2台のプリアンプに視線が向いてしまいがちだったようです。

 メインアンプは床置き型4台(もちろんマランツ)で,スピーカーはJBLの特注(型番は制作者にしかわからない)が4セットバランスよく天井に埋め込まれていました。

 当然かなりの迫力音となるわけですが,そんな音響に抗って対話のボルテージが上がったりすれば,たちまちウェイトレスさんに「店内で大声での会話はご遠慮ください」なる御触書を目の前に突きつけられることになります。

 この時代,何処のジャズ喫茶でも,一人で来店し,“我が世界”へと没入して“音”と向き合うという方が多かったため,たまに二,三人連れでつい駅前サテン気分で話をしようものなら「ウルセーゾ!ダマレ!」的な目線でにらまれるのがオチ。エスカレートすると「何イッテンダ!」と喧嘩騒ぎとなることもありました。

 店内のそこここに名エアドラマー,名エアピアニストさんがいらっしゃったのも日常変わらぬ風景でしたね。

 そんな彼らの最大の楽しみはリクエストができたことですね。

 ある者はあまり出回らない希少盤(この当時から幻の名盤との言い方はありました)をあえてリクエストし,対応したレコード係が「イヤ~それは未入荷です」と言おうものなら,「あっ!そう!ないんですかア!」と鼻をヒクヒクさせながら喜悦顔で自席へと戻っていく。

 また,「〇〇の□□をかけて」とリクエストできるということは,自分が店の常連であることを連れの友人や周囲のお客たちに誇示することでもあり,今で言うマウントを取る気分を味わうことにも繋がっていたのです。

 一方で,店側も負けてはいません。お客さんのリクエストには常に臨戦態勢!! 

 「〇〇の□□ありますか」との問いかけあれば,“敵”が全文句を言い終わらないうち,後方のレコード棚を振り返り見ることなく,片手をすーっと伸ばして棚に指をはわせ,ササッーと「コレのA面 B面どちらにします?」とLP盤を“敵”の眼前に突き出すといった技芸を披露することを無上の楽しみとしていたものです。

 『ブラックホーク』には,そんなスーパーテクを持つ名人が二人存在していました。

 一人は,ジャズ,ロック,フォークとあらゆる分野に造詣の深かったレコード室担当の故松平維秋氏。

 そしてもう一人が,この店の創業者オーナー〈MIZZ先生〉こと“みずかみよしのり”,かく言うこのわたくしであります。

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
『ブラックホーク』昔噺

『MIZZ先生がイラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の著者

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“ジャズ喫茶”よもやま話

‎MIZZ看板.jpeg
Sphere on Spiral Stairs

 今を遡ること半世紀以上も前の1960年代,“ジャズ”が,まだ一般には“モダン・ジャズ”という呼び名で通っていた(粋な方々は“ダンモ”なんていう言い回しを好んで使用していた)時代,渋谷・新宿をはじめ学生の街と言われた御茶ノ水界隈には,“ジャズ喫茶”(=ジャズを30cmLPで聴かせるお店)が,それぞれ5~10店舗ぐらい軒を連ねていました。

 近頃のように,大規模なチェーン展開で,どこもかしこも似た者同士の金太郎アメ的な店風情ではなく,どのお店も,個性的かつ独創性豊かで,エネルギッシュな経営姿勢を貫いていたように思います。

「これで どうだ! まいったか?!」

「この店じゃこれしか聴かせないぜ!」

「彼女連れでダベんないで! ジャズを聴けヨ!」

「やっぱ メイン・ストリームじゃなきゃ!」

「マイルスとコルトレーンがあれば十分さ!」

「いやいや! 今はアヴァンギャルド アルバート・アイラーさ」

   他にもいくらでも出てきますけれども,まさにこんな具合です。

 そんな環境のもとで鍛えられたお客さんたちは,相性の良いお店や店主を求めて贔屓筋を見つけ出し,時にコーヒー一杯で5,6時間も居座り続けるなどの荒業を繰り出しながら,顔利きの常連目指して日参するようになっていくわけです。

 とにかく,古の“ジャズ喫茶”は,お店側も,出入りするお客さん側も,我が強く,容易には主義主張を曲げず,人の意見に簡単には与しない,という個性豊かな人間たちが集う,何とも緊張感あふれるスリリングな場であったのです。 

 今や死語になりつつある“JAZZ喫茶”が,1950年代後半から60年代にかけて,なぜそれほどまで若者たちを惹きつけ,隆盛をきわめるに至ったかにはもう一つ理由があります。

 大卒初任給が3万円程度?だった当時,30cmLPの価格は2,500円~3,000円と,とても自分のこづかい程度では手の届かない,まさに高値の花でありました。また,当時の流行り音楽といえば所謂歌謡曲が中心で,新しいサウンドを希求していた若者たちが自分の愛好する音楽を愉しむ場は,せいぜい自宅でのFEN放送ぐらいだったものですから,必然,街に出ては“JAZZ喫茶”に入り浸る流れとなっていったのです。

 今日,スマホをチョチョッと操れば,お好みの音や映像をいつでもどこでも愉しめる時代に生きている人たちには,想像もつかない世相だったわけですね。

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
『ブラックホーク』昔噺

『MIZZ先生がイラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の著者

MIZZ先生こと”みずかみよしのり”が 

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶『ブラックホーク』を語り尽くします

●『ブラックホーク』入口風景

『ブラックホーク』入口 .jpeg

『MIZZ先生イラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の

著者“みずかみよしのり”氏は

1960年代後半,自身が大学在学中に渋谷道玄坂にJAZZ喫茶『ブラックホーク』を開業しましたが,後にわが国最初のロック喫茶へと路線変更し,数多の歴史的名盤の配信が業界で話題となり,当時の一流ミュージシャンたちもこぞって日参するほどの名店となりました。

 入口ドア左手にはショーウィンドウがあって,一般の飲食店ではメニューサンプルや価格表が置かれているようなスペースに,前身の『Jazz DIG』時代からのデコレーションそのままに,骨董品の蓄音機や年季がかった旅行バッグ,レトロなオイルランプにビンテージ風カメラなどが並べられていました。

 

 この頃には,『”ロック喫茶”ブラックホーク』の名も全国に広く知られるところとなってきていましたので,遠方から足を運んでくださる方も多くなり,店の前で記念写真を撮る微笑ましい光景をしばしば目にすることになります。ちなみに,右手扉は職員の出入り口でした。

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
『ブラックホーク』昔噺

『MIZZ先生がイラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の著者

MIZZ先生こと”みずかみよしのり”が 

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●『SMALL TOWN TALK』こぼれ話

SMALL TOWN TALK②.jpg

『MIZZ先生イラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の

著者“みずかみよしのり”氏は

1960年代後半,自身が大学在学中に渋谷道玄坂にJAZZ喫茶『ブラックホーク』を開業しましたが,後にわが国最初のロック喫茶へと路線変更し,数多の歴史的名盤の配信が業界で話題となり,当時の一流ミュージシャンたちもこぞって日参するほどの名店となりました。

 『ブラックホーク』は,決して大仰な表現でなく,まさに “全国のレコード店の皆様と共に”ありました。

 

 『BLACK HAWK NEWS』紙のニュース記事への資料提供はもとより,新譜入庫などに関しても,“『ブラックホーク』さんのために,最新のこれはオススメ!というレコードをお届けしていきます” と,数多の名盤の仕入れにご尽力いただいた,上野『蓄晃堂』(後に原宿『メロディハウス』店長)の飯田充さん,その友人で新潟県小千谷市出身の長谷川さん,高田馬場早稲田寄り『OPUS-one』 の桝屋さん,吉祥寺『芽瑠璃堂』の後藤さんをはじめ,各地のレコード店とその店長さんたちには,この場をお借りして厚く御礼申し上げる次第です。誠に有難うございました。

 

 最後に,『SMALL TOWN TALK』1975年5月発刊の創刊号の「巻頭言」で,私(MIZZ=みずかみよしのり)が記した拙文を添えます。

 

ちょっとすれ違った坂道の下

どう元気?と言いつつも 巷の噂よりも彼は言う

ウェストコーストやナッシュビル 

そしてトラッドのことがどうしても気になるんだが

アンダーセンは? リトルフィートは?

バーバンク? エッ! カナダ?

ついつい聴かずにはいられない

ただの風のたよりなんだが また坂道を登ってしまった

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
『ブラックホーク』昔噺

MIZZ先生がイラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の著者

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●『BLACK HAWK NEWS』発刊

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『MIZZ先生イラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の

著者“みずかみよしのり”氏は

1960年代後半,自身が大学在学中に渋谷道玄坂にJAZZ喫茶『ブラックホーク』を開業しましたが,後にわが国最初のロック喫茶へと路線変更し,数多の歴史的名盤の配信が業界で話題となり,当時の一流ミュージシャンたちもこぞって日参するほどの名店となりました。

 さて,店は無事始まりはしたものの,購入できるレコード予算には限りがあり,「これからどうする?!」と頭を悩ませている時でした。

中村とうよう氏(故人,㈱ミュージック・マガジンの元取締役会長・代表取締役)や,当時まだ大学生になったばかりの山下達郎氏らが救いの手を差し伸べてくれるという僥倖に恵まれたのです。「これ! しばらくお店に置いてお客さんに聴いてもらって!」と,大量のレコードを預からせてもらい一気にレパートリーを増やすことができました。

 

 その頃は,ビートルズだろうがハードロックだろうがサイケロックだろうが,ジャンルなど見境なく,レッド・ツェッペリンブラック・サバスディープ・パープルアル・クーパーブラインド・フェイス等々何でもござれでどれもこれも大音量で流し続けていました。『ブラックホーク』=〈シンガソングライター〉〈ウェスト・コースト〉〈ブリティッシュトラッド〉のお店,とイメージされているお客さまたちには思いもよらぬ選曲嗜好ではなかったかと思います。

 

 1969年頃には,いまなお語り継がれる史上最大のロックの祭典ウッドストック・フェスティバルの熱狂が日本にも押し寄せ,国内の音楽シーンにも多大な影響を与えるようになっていくわけですが,この時期『ブラックホーク』も,一日中フォークロックミュージックを流し続けるお店に変貌していました。

 

 そうしたなかで,”輸入レコードの伝道師”を広く謳う『ブラックホーク』は,この期に合わせ,ジャズ,ロック,フォークとあらゆる分野に造詣が深かったレコード室担当の松平維秋氏(故人)の知識や分析力を活かすべく,私(MIZZ=みずかみよしのり)が徹夜厭わず鉄筆を振るい今や時流に消えかかる” ガリ版刷り”を駆使して,新入荷のレコード紹介を主目的とした『BLACK HAWK NEWS』紙を月2~3回のペースで発行するようになっていきます。

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
『ブラックホーク』昔噺

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●ブラックホーク誕生秘話

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『MIZZ先生イラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の

著者“みずかみよしのり”氏は

1960年代後半,自身が大学在学中に渋谷道玄坂にJAZZ喫茶『ブラックホーク』を開業しましたが,後にわが国最初のロック喫茶へと路線変更し,数多の歴史的名盤の配信が業界で話題となり,当時の一流ミュージシャンたちもこぞって日参するほどの名店となりました。

 今から60年近くも前,1966年末のことです。

当時ジャズ喫茶の老舗格であった『DIG新宿店』の支店『渋谷DIG』のオーナー中平氏より,渋谷道玄坂百軒店の一隅にあった店舗を,私(MIZZ=みずかみよしのり)が居抜き売買によって購入する縁となりました。

 代替わりに伴う店名変更の必要から,かつてジャズミュージシャンたちが多くのライブ録音名盤を残していたアメリカ西海岸サンフランシスコの名店『BLACK WAWK』からそのまま店名をいただき,『ブラックホーク』と命名しました。

 

 ただ時勢は,人気沸騰するビートルズやローリング・ストーンズらが牽引する時代へと移り変わり,「ジャズ喫茶でジャズを聴く」ブームはいつしか過ぎ去っていきます。また,一部のジャズミュージシャンたちがロックのエッセンスを融合させた音楽を指向し始める流れに加え,西海岸のフラワームーブメントに便乗したサイケデリック・ミュージックがサイケファッションと共に日本に移入されるようにまでなったことから,私(MIZZ=みずかみよしのり)は,スタッフ連とも協議のうえ〈ロック喫茶〉への変身を決断するに至ります。

 

 そのような紆余曲折もあって,わが国最初と言われる〈ロック喫茶〉が誕生したわけですが,当初は,あくまで試験的に,一日3時間の「ロックタイム」を設ける程度の計画で臨むはずだったところ,いざ蓋を開けてみると,ロックをこよなく愛するお客さんたちで連日超満員の大盛況ぶりに,嬉しい悲鳴とともにいきなりの方針変更を迫られることになりました。

渋谷道玄坂伝説のロック喫茶
『ブラックホーク』昔噺

『MIZZ先生がイラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の著者

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●プロローグ

1960年代後半の「JAZZの街」百軒店

百軒店地図.jpeg

『MIZZ先生イラストたっぷりで教える〈便秘〉からの脱出』の

著者“みずかみよしのり”氏は

1960年代後半,自身が大学在学中に渋谷道玄坂にJAZZ喫茶『ブラックホーク』を開業しましたが,後にわが国最初のロック喫茶へと路線変更し,数多の歴史的名盤の配信が業界で話題となり,当時の一流ミュージシャンたちもこぞって日参するほどの名店となりました。

 渋谷の道玄坂を上って右手の「しぶや百軒店」と書かれたアーチ型看板の門を潜り,もう一息坂道をぐっと登ったわずか100メートル四方にも満たない,狭い丘の上(地元では昔”ヤマ”と呼ばれていたらしい)に,7軒ものジャズ喫茶が密集するジャズの街が広がっていました。 

 ①『オスカー』(大音量でライブ感たっぷり)

 ②『ありんこ』(10人ほどの定員だがアットホームな雰囲気)

 ③『DIG』(後の1966年に我が国初のロック喫茶『ブラックホーク』となる)

 ④『SAV』(③の2階にありました)

 ⑤『スウィング』(ハンチングとパイプをくゆらせた渋いマスターが人気)

 ⑥『ブルーノート』(1966年ごろには撤退していた?)

 ⑦『デュエット』(少し離れた旧恋文横丁方面にあったしっとりした雰囲気の店)

●百軒店は,ジャズ喫茶ばかりでなく,今ではとても想像がつきませんが,『テアトル渋谷』『テアトルハイツ』『テアトルSS』といった映画館が林立する映画街でもあり,そのうえジャンル豊富な飲食店が100軒以上立ち並んでいたことから,文字通りの名が付いたという話であります。

 

●地元古老が語るところの,てっぺんをチョイと削ったこんもりした”山(ヤマ)”という100メートル四方にも満たない場。南北3本,北と南にそれぞれ1本のメイン道路で囲まれたその街中は複雑極まりない迷路のようでした。さながら,現在の新宿ゴールデン街や思い出横丁といった趣でしょうか。

 

●今では,百軒店からジャズ喫茶は消失してしまいましたが,彼の地で90年に渡り自慢の巨大スピーカーで堂々とクラシックをかけ続けている名曲喫茶『ライオン』は健在です。

 

●ラーメン通には絶大の人気を誇る1952年創業の『喜楽』。現在は,二代目の林さんが先代の味を守り続けていますが,この方も『ブラックホーク』の常連でありました。

 大きめの餃子,野菜たっぷりタンメン,もやしそばが一番と言う常連さんも大勢います。

 

●『喜楽』とくれば,その対面『道頓堀劇場』(1970年オープン)を忘れてはいけません。何度かの閉開店やオーナー替わりをしたものの,今もって健在,まさに百軒店入口の顔であります。ちなみに,ここの出世頭は『コント赤信号』ということになるわけですが,彼らもロック喫茶『ブラックホーク』の常連でした。

 最初の頃は「ヌード寄席」といった看板でストリップショーやコント漫才といったプログラムだったようで,コントや漫才の方々をはじめ,時には踊り子さんたちも『ブラックホーク』でコーヒーを飲みながら休憩されることもあったようです。

▓「予測」という名の欲望

「未来を知りたい。それは,人間の飽くなき欲望だ。世界中から膨大なデータを集め,人工知能(AI)で瞬時に分析できる現代。様々な分野で,一歩先を「予測」しようとする試みが始まっている。あなたは,どこまで知りたいですか。」

(画像は「2000年には」フランス国立図書館(BnF),版画写真部提供)

予測という名の欲望_edited_edited_edited.png

GLOBE編集部の西村宏治氏のレポート

https://globe.asahi.com/article/12766081

「ビッグデータの時代。人工知能(AI)の時代。そんなふうに呼ばれる現代は「予測」の時代でもある。私たちに身近な天気予報をはじめとして、自然災害からギャンブルまで様々な分野で予測技術が使われている。もはや、予測は現代社会に欠かせないインフラになりつつある。」(以下~)

🔶『あなたの「バイアス」が見えるかもしれない,未来予測クイズ7選』

https://globe.asahi.com/article/12764932

 

A これからの生活が「豊かになる」と考えている日本人の割合は?

①23%  ②32%  ③43%  ④52%

 

B 2050年の世界の予測人口は?

①77億人  ②87億人  ③97億人  ④107億人

 

C 2050年,GDPのトップ3は中国,インド,アメリカだと予想されています。4位はどこでしょうか?

①日本  ②ブラジル  ③ロシア  ④インドネシア

 

D 2050年に子どもの死因で最も多くなると考えられているものは次のうちどれ?

①大気汚染  ②不衛生な水  ③マラリア  ④地表付近オゾン

 

E 温暖化対策をしなかった場合,2100年の東京の猛暑日は何日くらいでしょうか?

①30日  ②40日   ③50日   ④60日   

 

F 日本の単身世帯の割合は1980年は19.8%でした。2040年にはどれくらいになるでしょうか?

①約30%   ②約40%  ③約50%  ④約60%

 

G 2015年から2040年にかけて,世帯数の増加率が最も高い都道府県はどこでしょうか?

①東京都  ②滋賀県  ③沖縄県  ④愛知県

 

 

🔶さて,答えは

 

A:① 23%(「国民性の研究 第13次全国調査-2013年全国調査-」統計数理研究所調査研究リポートNo.116)

 

B:③ 97億人(World Population Prospects 2019)

C:④ インドネシア(コンサルティング大手PwCによる2017年の調査レポート)

D:① 大気汚染(2012年OECD Environmental Outlook to 2050)

E:④ 60日(2019年環境省作成「2100年 未来の天気予報」)

F:② 約40%(国立社会保障・人口問題研究所「日本の世帯数の将来推計」)

 

G:③ 沖縄県(国立社会保障・人口問題研究所「日本の世帯数の将来推計」)

 脳科学から考える「記憶」と「性格」

(画像は「https://jp.freepik.com/free-photos-vectors/infographic

によって作成されたものを筆者転載)

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《特集「人生100年時代を生きる」/脳科学から考える「記憶」と「性格」》のスペシャルインタビュー記事のなかで,池谷裕二氏(東京大学薬学部教授)が次のように話しています。

 

「そもそも,記憶力は加齢で低下するわけではありません。~人間は年齢を重ねたほうが,脳を経験から最適化して効率よく使えるようになるといえます。

 また,記憶は正確でなくても問題はありません。羅列された複数の単語を短時間で覚えるように言われた後,「何の単語があったか」を問われて答えることは困難です。しかし,複数の選択肢の中から「どの単語がありましたか」と問われると答えられることもあります。脳科学的には「想起はできないが,認知はできる」といいます。「人とすれ違った時,名前は曖昧だけど,会ったことがあるのはわかる」というのと同じで,部分的に柔軟に記憶しているのです。~」

 

❏想起:自分の中に保存されていた記憶を,ある期間が経過した後に外に表すこと。

❏認知:対象を知覚し,それが何であるかを判断したり解釈したりすること。

【付図〈想起と認知とは〉より】 

 

「もうひとつ,年齢とともに鍛えられるのが「直感」です。似た言葉に「ひらめき」がありますが,脳研究の分野では,この2つは異なる意味を持っています。」

 

❏ひらめき:答えを出す時に,過去の経験や学習から理由が説明できるものは,脳の「大脳皮質」が働いた「ひらめき」で答えています。

❏直感:答えを出す時に,明確な根拠がなく,何となくでしか説明できないものは,脳の「大脳基底核」が働いて導き出した「直感」で答えています。

【付図〈ひらめきと直感の違い〉より】

 

 さらに池谷氏は,自身が加齢と頑固さの関係について学会発表する際にいつも紹介しているという,アメリカの心理学者スザンヌ・ライチャードによる研究を取り上げています。

 

🔶円熟型

・自らの老いを自覚するが,活動意欲を低下させない。

・過去を後悔せず受け入れ,未来に対しても現実的。

・新しい現実の中で満足を得られる。

・自分で自分の人生を進めようとするので,周囲の負担が少ない。

・スマホなどの新しい技術も,面白がって使えるようにする。

 

🔶依存型

・消極的に老いを受け入れ,気楽な隠居であることを求める。

・誘われれば,新しい環境への適応もできる。

・生活不活性病対策として,活動的な行動をうながす必要がある。

・スマホなどの新しい技術も,それが自分を楽にさせるものであることが理解できれば,使いこなせる。

 

🔶装甲型

・老いへの不安と恐怖から,強い防衛的態度をとる。

・若い時の生活水準を守ろうとする。

・使えないと恥ずかしいから,スマホなどの新しい技術も受け入れようとする。

・責任感が強いがゆえに,無理をしすぎることがある。

・自尊心を傷つけずに,無理しすぎないように注意する必要がある。

 

🔶内罰型

・過去の人生を失敗とみなし,原因が自分にあると考え,愚痴と後悔を繰り返す。

・かつては仕事で家族をかえりみず,家族から相手にされない現状を嘆く。

・新しい技術に適応しようとしない。

・過去にとらわれることなく,反省しつつも,新しい関係性などを築いていく必要がある。

 

🔶外罰型

・自分の過去だけでなく,老化そのものを受け入れることができない。

・過去を失敗とみなし,その原因を環境や他者のせいにする。

・不平や不満が多く,周囲に攻撃的なため,トラブルを起こしやすい。

・他者から親切をされても,それを好意的に受け入れられない。

・献身的に対応しても感謝されないため,周囲のサポートを受けられない。

 

【付図〈心理学者スザンヌ・ライチャードによる「高齢者の5つのタイプ」〉より】

▓ 幸せの世界地図

アメリカの調査会社ギャラップが,毎年140以上の国と地域を対象に実施している幸福度調査からのものです。

ここでは,「人生全体」「日常の幸福」「体の健康」の3点に絞ったかたちで世界地図に表現されています。

2017年11月号 特集「地上でいちばん幸せな場所」)

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/mag/17/101900002/

                                                          〔図下の記号・注釈は筆者作成〕

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❏「人生全体に満足」北欧のデンマーク,フィンランド,アイスランドは,人生全体への満足度が高い。

❏「笑いのある毎日」中南米諸国は,日々の喜びを大切にする。特に幸福度が高いのは,コスタリカとパナマだ。

❏「基本が大事」北アフリカは道路や水道が整備され,携帯電話が使える範囲も広い。インフラの充実が,南部より幸福度が高くなる一要因だ。

❏「幸福の広がり」東南アジアでは,長らくシンガポールがトップだったが,近年はタイの追い上げが顕著だ。

 

 

 地球の素顔をビジュアルで伝える『ナショナルジオグラフィック〈日本版〉』誌が,2020年3月号で創刊300号を迎えたそうです。

『ナショジオ』誌といえば,ハイグレードな写真はもちろんですが,カラフルなイラストや精細なタッチで表現した図解などのグラフィックも,誌面作りに大切な役割を果たしています。

 『創刊300号』では,「グラフィックで知る地球」と題して,これまで〈日本版〉に掲載された傑作の数々が特製付録に収められています。

 どれも素晴らしいものばかりですが,ここでは細かな部分までお伝えできませんので,中でやや見やすいものの一つをご紹介することにしました。

 

 上のグラフィックが掲載された2017年11月号には次のような面白い記事もあります。

 

 国連が毎年発表する「世界幸福度報告書」によると,幸福の75%は「信頼感」をはじめ「堅調な経済成長」「健康寿命」「良好な人間関係」「寛容さ」「自分に適した生き方をする自由」の6つの要因で決まるとされています。

 どれもその国の文化や政策と密接に関連し,人々の幸福は住む場所に深く関わっているといえるでしょう。

​ 2022年11月に世界の人口が80億人に到達した

『NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版』(2023年4月号)

《総力特集 80億人の地球》の特集記事

に掲載されている写真や図表の中から

これはと思われるもののキャプションだけを拾い出してみた。

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NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版』(2023年4月号)の《総力特集 80億人の地球》より下記3つの特集記事(p.5 「目次」)に掲載されている写真や図表の中から,これはと思われるもののキャプションだけを拾い出してみた。

 

28 爆発する世界の人口

医療の発達で子どもの死亡率が低下し,平均寿命が長くなるに伴って,世界の人口は半世紀もしないうちに2倍に増加した。だが,食料などの資源の不足や気候変動といった要因によっては,この傾向が反転する可能性があると,専門家たちは考えている。

 

40 増えるナイジェリア

食糧難と働き口不足が,アフリカ最大の人口を抱えるこの国に影を落とす。

 

62 減る中国

一人っ子政策と出生率の急落によって人口が減少に転じたこの国で,人々は新しい生き方を模索している。

 

これらを流し読みするだけでも,今「世界」が直面している厳しい現実と「人間」が切り開くべき未来へ向けての重い課題が浮かび上がってくる。

 

●世界の人口は目下,最多記録を更新中だが,今世紀中に新たな局面を迎えるかもしれない。人口の伸びが頭打ちになり,減少する可能性があるのだ。国によっては急増するが,大きく減らす国もある。

(P.29)

 

●人類の歴史は,新たな節目を迎えた。 国際連合の統計によると,世界の人口は2022年11月に80億人に到達した。 1974年に国連が各国の代表を集め,人口増加について話し合う国際会議を初めて開催してから50年もたたないうちに,2倍になったのだ。当時,人口1000万人以上を抱える大都市圏は ニューヨーク市と東京,メキシコシティの三つだけだったが,現在は30都市を超えている。

 人口爆発の要因は,医療,公衆衛生,農業生産の著しい進歩にほかならない。それにより,子供の死亡率が大幅に低下し,平均余命が伸びている。今世紀末の世界の人口について,オーストリアの国際応用システム分析研究所は 94億人,米国シアトルの保健指標を評価研究所は97億人に達すると予想していて,国連の専門家は104億人に達する可能性もあるとみている。

 だが,新たな変化の兆しも見られる。増加の一途をたどってきた人口が,今世紀中頃から2100年の間に頭打ちになると予測されているのだ。

(p.30)

 

●生産年齢人口と経済成長

経済が正常に機能している国では,出生率が下がって生産年齢人口が全体の3分の2以上を占めるようになると,経済成長が急速に促進される。こうした期間を「人口ボーナス期」というが、出生率が下がりすぎて,高齢者の割合が大きくなると終わりを迎える。

(p.32)

 

●中国を抜いて世界一へ

~インドは今年,中国を抜いて世界一人口の多い国になる。今世紀半ば以降に人口が減少に転じる可能性があるが,今世紀中は世界最多の人口を維持し続けるだろう。

(p.35)

 

●人口増加に足踏み

世界中の人々が,医療の進歩と生活水準の向上などによって,以前よりも長く生きるようになった。だが出生率の低下によって,寿命が延びたことで生じるはずの人口の増加が打ち消されている。

(p.37)

 

●出生率が低下していく世界

1950年と比べて,世界の出生率は半分にまで低下している。女性が教育や雇用の機会,避妊の手段を獲得したことも背景にあるだろう。しかしサハラ以南のアフリカでは,こうした社会的な変化の影響も限定的で,大家族の伝統が根強いため,世界で唯一高い出生率を維持している。その結果,世界中で人口が減少するなか,アフリカだけは多くの国々で人口の増加が続いている。

(p.38)

 

 

 

❏ナイジェリアの人口は,2050年までに3億7700万人に達すると予測されている。アフリカ最大の人口を抱える国で生まれた子どもには,どのような未来が待っているのか?

(p.41)

 

●必要な巨額の投資

人口1500万人を超すラゴスにあるバスターミナル近くに,旅行者や行商人が集まる。インフラ投資は伸びているが,急増する国民の潜在力を最大限に引き出すには,2050年までに数百兆円規模の投資が必要になると世界銀行は推定している。

(p.45)

 

●次の世代を産む

~ナイジェリアの医療環境は改善されてきてはいるが,保健施設や医療スタッフの不足から,今でも175人に1人の妊婦が出産に際して命を落とす。

(P.46)

 

●人口が増大するアフリカ

現在から2050年までに世界で増える人口のうち,サハラ以南のアフリカが3分の2を占める。その頃,ナイジェリアは世界で3番目に人口の多い国になり,年齢の中央値は23歳を下回ると予測されている。

(P.51)

 

●足りない食料

~何らかの農業に携わる国民は7割にのぼるが,栽培条件が悪く,人口が増えているため、食料自給率は低下している。ナイジェリアは,小麦と魚を中心に,年間3兆円近い食料を輸入している。

(p.57)

 

●1000万人が生活する大都会

中国南西部の工業都市である重慶は,この数十年で急速に成長し,拡大しているが,屋外で火鍋を囲む習慣は健在だ。重慶の都市部の人口は推定で1700万人以上。町の発展とともに地下鉄やモノレールが整備され,道路の渋滞が緩和された。

(p.67)

 

●変わる暮らし

~ 中国政府は都市部周辺の農地開発を急いで進めていて,数百万人もの農家の人々が,新築の高層マンションへの入居と引き換えに,先祖伝来の土地を明け渡した。

(p.75)

 

●練習あるのみ

~ 子供が一人しかいない富裕層の夫婦は,わが子の将来のためにこうした習い事をさせることが多く,現在の中国では,子育てにかかる費用はますます高くなっている。

(P.77)

 

●自由を享受する

~専門職に就いている中国の若い女性のなかには,結婚して子どもをもつことよりも,キャリアや社会生活を優先させる人が増えている。

(p.81)

 

●二人だけで十分

重慶に暮らす新婚夫婦,石林と郭歓歓は,高額な子育て費用に不安を覚え,子どもはもたないか,もっても1人だけと決めた。子育ては負担が大き過ぎると,郭は考えている。「わが子にはできる限りのことをしてあげたい。でも自分の人生が育児に縛られるのは嫌なんです」

(p.85)

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