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”コロナ”なんかよりも”健康イデオロギー”の増殖のほうがよほど怖ろしいんです(第4回)

更新日:2023年3月29日

ミシェル・フーコー Michel Foucault(1926~1984)は,20世紀を代表する「知の巨人」である。

 フーコーは,「近代」における「知」の構図を大きく変革させるような意義深い仕事を数多く残しているが,ここではまず彼の「権力」モデルの変容から見ていくことにしよう。

 仲正昌樹氏の『フーコー〈性の歴史〉入門講義』(作品社,2020)にうまくまとめられているので,そこでの記述を図式化してみた。








「生権力」については,フーコー自身の著作や下記文献での解説も参考になる。


死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって,生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現われた,と言ってもよい。死に伴う儀式が近年廃ってきたということに示される死の価値下落も,恐らくこのようにして説明されるだろう。死をうまくかわすためにする努力は,我々の社会にとって死を耐え難いものとしている新しい不安に結ばれているというよりは,むしろ,権力の手続きがひたすら死から目を外らそうとしてきたことにつながっている。(ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』(渡辺守章訳,新潮社,1986,p.175)

それは規律権力について調べを進める中で見出された,生をめぐる権力である。この権力は,法を楯にして剣を振りかざし,死をちらつかせて被治者を脅すのではなく,生そのものに介入し,コントロールし,支配し,生きて生活する人間により多くのものを産み出させるような権力だった。(重田園江『ミシェル・フーコー』ちくま新書,2011,pp.183-184)
~社会のモデルが,法のモデルから生ける身体という有機体的なモデルに転換したことによって,近代の社会は,外部に支配者をもつ社会である以前に,自分の身体をもち,病に悩むような一つの有機的な存在とみなされるようになる。
 こうした有機体としての身体をもつ社会は,規律権力とは異なるタイプの権力で支配されていると考えることができる。フーコーはこの権力を〈生-権力 bio-pouvoir〉と呼ぶ。フランス革命以前のアンシャン・レジームにおいては,王は「死を与える権力」であった。しかし革命によって王を殺戮し,独立した有機体のような感受性をもちはじめたフランス革命以降の市民社会の権力は,「生を与える権力」となる。(中山元『フーコー入門』ちくま選書,1996, p.151)

このように,フーコーの「権力」モデルは主に3度にわたって変容していくわけだが,このあたりの詳細な流れについては,『フーコー・コレクション フーコー・ガイドブック』(小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編,ちくま学芸文庫,2006)の解説が役に立つ。




フーコーは,1975年には『監視と処罰ー監獄の誕生』を刊行する。そこでは監獄をモデルに,学校,軍隊,工場といった近代社会の基本的な組織をつらぬいている「身体の政治技術」としての「規律」がとりあげられ,「規範」や「試験」といった人間管理の技術の歴史的な成立が明らかにされていった。〈権力〉と,人間管理の〈知〉としての「人間科学」との相関が問われたのだった。この著作でとりあげられたベンサムの「パノプチコン」の監視装置のモデルとともに,〈権力〉にしたがえられて成立する身体の〈主体化=従属化〉の問題は,近代社会の教育や懲罰や軍事や産業といった諸制度を説明する原理とされ,その後,フーコーの権力論は,社会,政治,国家の研究に不可欠の視点となってきた。(石田英敬「序」,p.14)
 監獄は当初から,再犯防止の役割を期待されていた。つまり,拘禁は懲罰という意味に加え,犯罪者の矯正という意味ももつものと見なされていた。この矯正に関する「装置」にフーコーが与えた名が「規律」である。監獄制度が狙いを定めている精神(そしてその容器として再定義された新たな身体)に対して「規律」が行使される,という図式は,監獄の誕生以前に成立していた。フーコーの検討はこの,近代にわずかに先行して成立したテクノロジー一般へと向かう。
このテクノロジーは,個人をひとしなみに標定するために,施設への囲い込みや「基盤状配備」と呼ばれる区分けを要求する。いずれ成立する監獄にかぎらず,学校や兵舎,工場や病院も,同種の分類・区分のもとで配備される。人間は分類の対象となり,矯正・懲罰・試験などに関する細かい規定が人間の行動全般に形を与える。ここで得られるのが「従順な身体」である。
 この新たな身体に対するまなざしは「監視」という形を取る。その究極の形としてフーコーが再発見するのが「一望装置」である。これは,見られることなくつねに満遍なく見る(少なくともそのような印象を与える)制度的権力である。それまでの権力はむしろ自分を見せつけることに意を配っていたのに対し,近代の権力は逆に身を潜め,むしろ対象のほうを目に見えるものにする,とフーコーは言う。これにより,人間がつねに権力からのまなざしを意識することになり,権力は意識として内面化される。なお,この近代的人間の成立が,法制度のような,国家権力の象徴として扱われてきた制度によって実現されたのではないということは再三,注意が喚起されている。近代的人間は,より一般的な「装置」によって鋳造されるのである。(高桑和巳『監視と処罰』解説,pp.71-72)

 

◆規律discipline

 近代にわずかに先立って社会を律し,近代の枠組みとなったというメカニズム。英語ふうに「ディシプリン」,あるいは意味を補足して「規律訓練」「規律訓育」などと書かれることもある。この語は,規律のほか,懲罰・しつけ・訓練・調教といった意味あいをもち,さらには学問分野という別の意味もある。とはいえこれらはすべて同じ意味の核のまわりに位置している。すなわち,行動全般の矯正のために導入され,近代的な人間を鋳造するために用いられる,あらゆる枠組みである。

(高桑和巳 『監視と処罰』解説より抜粋,p.73)


 

◆一望装置 panoptique

もともとはジェレミー・ベンサムが18世紀末に提唱した建築プランであり,英語読みで「パノプティコン」とも,「あまねく(pan-)」「見る(optic)」というもともとの意味をふまえて「一望監視施設」とも書かれる。円形に配置された独房の内側と外側に窓が設けられ,円の中心に建てられる監視塔からは,被収容者に見られることなくあらゆる被収容者をつねに見るーー見ていると思わせるーーことが可能。フーコーはこのモデルを,近代的な監獄の成立以降の権力一般を説明するために用いている。兵舎・病院・学校・工場などは,その意味で監獄に似ている。

(高桑和巳『監視と処罰』解説より抜粋,p.75 )


 
『監視と処罰』では主権から規律へという二段構えになっていた近代化プロセスが,ここでは,主権から規律へ,次いで生政治へ,という三段構えで考察すべきとされる。近代は人間の身体を主要な統治の対象としたが,17世紀にまずなされたのがその身体の調教であり,これが規律にあたる(「解剖政治」とも呼ばれる)。かつて臣民を殺す権力を誇示していた主権が,人民を生かす権力を隠しもつ近代的政治へと移行する。(高桑和巳『知への意志』解説,p.81)



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