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”コロナ”なんかよりも”健康イデオロギー”の増殖のほうがよほど怖ろしいんです(第5回)

更新日:2023年4月28日

 

 「生-政治 bio-politique」はフーコーの後期の主要な概念であり,前掲書『性の歴史Ⅰ 知への意志』では以下のように説明されているのだが,まさに”健康”イデオロギーの増殖の成れの果ての実相を暗示しているかのようだ。


具体的には,生に対するこの権力は,17世紀以来二つの主要な形態において発展してきた。その二つは相容れないものではなく,むしろ,中間項をなす関係の束によって結ばれた発展の二つの極を形成している。その極の一つは,最初に形成されたと思われるものだが,機械としての身体に中心を定めていた。身体の調教,身体の適性の増大,身体の力の強奪,身体の有用性と従順さとの並行的増強,効果的で経済的な管理システムへの身体の組み込み,こういったすべてを保証したのは,規律を特徴づけている権力の手続き,すなわち人間の身体の解剖-政治学〔解剖学的政治学〕であった。第二の極は,やや遅れて,18世紀中葉に形成されたが,種である身体,生物の力学に貫かれ,生物学的プロセスの支えとなる身体というものに中心を据えている。繁殖や誕生,死亡率,健康の水準,寿命,長寿,そしてそれらを変化させるすべての条件がそれだ。それらを引き受けたのは,一連の介入と,調整する管理でありすなわち人口の生-政治学〔生に基づく政治学〕である。(ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』渡辺守章訳,新潮社,1986,p.176)

 前掲書『フーコー〈性の歴史〉入門講義』でも,次のようにわかりやすく説明されている。

~個別の身体を躾けるのではなく,「人口 population」全体の「繁殖や誕生,死亡率,健康の水準,寿命,長寿」を科学的に管理します。(仲正昌樹『フーコー〈性の歴史〉入門講義』作品社,2020,p.124)
「生政治」というのは,ごく大雑把にまとめると,養豚場の豚を生かすように,人間を最適の環境で飼育して,ちゃんとおいしい肉にするというようなイメージです。犬を番犬とか警察犬として個々に訓練するのではなく,豚をひとまとめにして,育ちやすい環境において肉として管理・育成するというイメージで考えればいいのではないかと思います。(同上,p.125)

 ところでフーコーは,1970年からコレージュ・ド・フランスで教鞭をとるようになるのだが,そこでの講義内容は,各年度末にフーコー自身の手によって要旨にまとめられて,『コレージュ・ド・フランス年鑑』に毎年掲載されていた。


 

 前掲書『フーコー・コレクション フーコー・ガイドブック』にもその一部が掲載されており,中に,訳出は「生体政治 bio-politique」と変えられてあるものの,フーコー自身による説明がされているので紹介しておこう。


 18世紀後半から始まる,当時,《医学警察》Medizinishe Polizei,公衆衛生,《社会医学》social medicineなどと呼ばれていたものは,《生体政治》bio-politiqueという一般的な枠のなかに再登録されなければならない。この《生体政治》は,《人口》を,それぞれ異なった生物学的にして病理学的な特徴を持ち,それ故に,特別な知と技術に属することになる,共存しつつ生きる存在の集合として取り扱おうとする。そして,この《生体政治》そのものがまた,国力の管理統御という17世紀来,発展した主題から出発して理解されなければならないのだ。(小林康夫訳,pp188-189 「治安・領土・人口」『コレージュ・ド・フランス年鑑』78年度,「思考システムの歴史」講座,1977-1978年度,1978年)

本年度の講義は,当初は序論となるはずであったことが最終的には講義全体となるかたちで行われた。そのテーマとは「生体政治(biopolitique)」である。この語によって私が意味しているのは,人口集団(population)としてとらえられた生活者の総体に固有な現象,すなわち健康,衛生,出生率,寿命,人種などの現象によって統治実践に対して提起される諸問題を,合理化しようとする18世紀以来のやりかたである。こうした諸問題が19世紀以来どれほどますます大きな位置を占めてきたか,今日までどのような政治的および経済的問題の焦点となってきたかはよく知られるところだ。(石田英敬訳「生体政治の誕生」『コレージュ・ド・フランス年鑑』79年度,「思考システムの歴史」講座,1978-1979年度,1979年)

  さて,ウイルスの話に始まり,コロナ禍における「自発的」自粛がじつは昨今の”健康”イデオロギーの浸透と深い相関関係にあり,それがミシェル・フーコー言うところの「生−権力」「生−政治」へと連結していくといった形で論を進めてきたが,ここまでを簡単にまとめておくことにしよう。


 要するに,”安心・安全”を担保とした寿命の延伸を糧とする”健康”イデオロギーに囚われた心性は,あの手この手で人間を”生かす”ように仕向けられた「(生に対する)権力」のまなざしを常に意識せざるを得なくなり,ついにはその「(生に対する)権力」は意識として内面化されるのである。

 そして,「(生に対する)権力」の管理統御への手続きにひたすら随順することによって,「権力」にとって甚だ都合の良い型に鋳造されていくというわけだ。


 ”健康”イデオロギーは,おそらくこの先ますます増殖の一途を辿ることになるのだろうが,「生−権力」の管理強化に対して「消極的な抵抗」(前出・笠井潔氏)に終わらぬよう,”健康”をとりまく言説空間を「多層的かつ厳格にチェック」(前出・山崎望氏)しながら,「フーコー的な問題提起」(前出・外山恒一氏)への関心を持ち続けていきたいと思う次第である。


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