top of page

大学教育のありようと「教養」の行方を追って(6)

更新日:2020年4月16日

 もう一つふれておきたい本書を貫く重要なキーワードが,「評価」です。

 

 著者リースマンは,「評価」なるものが,「教育(改革)」のあらゆる場面でいわば幅を利かせ,ネガティブかつ深甚な影響を及ぼしていく姿を露わにしていきます。

 

 評価と格づけという発想は学校・大学を企業にし,市場的成果で判断するという経営学的な思考の枠組みと初めから結びついていた。教育の領域にも競争的状況があり,良い学校は有名になってますます薦められるようになるのであって,大学間には当初から競争――そして流動性――が指標としてあった。しかしさまざまな世界解釈,方法,モデルに関して,またさまざまな学術文化領域で演じられる競争は,真理への接近をめぐる競争であって,順位争いなどではなかった。(p.70)

 

 一度格づけメカニズムの虜になると,精神分析の有名な強迫観念を思わせる兆候がたちまち現れてくる。目に入ったものはみな,格づけに供されることになる。………現代の教育の専門家は取り組むすべての問題に,格づけリスト形式の解答を付与せずにはいられない。授業の質はどうか? 検証して格づけだ! 良い大学はどこだ? 評価と格づけだ! 学問的権威はどこにある? 出版団体の格づけだ! どの研究プロジェクトに注目しようか? 評価を取り寄せて格づけだ! 事物そのものではなくて,それがいかがわしいリストのうちに占める位置だけが考慮の対象となる。(p.72)

 

 「評価」は質の保証と質の向上,国際化と効率性,エリート教育と挑戦的研究,競争と知の決算表,外部資金とプロジェクト性,ボローニャ・モデルとPISA調査といった諸概念によって,そのインフレの背後に隠れているものを認識することを許さないという流儀で,教育政策的思考をがんじがらめにする呪文である。(p.79)

 

 要は評価(Evaluation)なのだ。このフランス語――ラテン語ではない――に由来し,二十世紀の80年代になって英語からドイツ語圏に輸入された概念は,大学の業績は他の分野の業績と同様,研究と教育において標準的・客観的評価を継続的に受けるべきだという,高等教育施設における比較的無害な新しい考え方を指すものだった。(p.80)

 

 大多数の学者はつねに評価書の作成,同僚の評価,統計づくり,計画指数とインパクトファクターの計算,申請書と提出書類の評価,外部資金の調達といったことにかかずらっている。そして彼らが安住することのないように,おのおのの評価の規準や手法は変更されるか,すぐに定義し直される。このようにして評価と措置はいわゆる質の確保のために,事実上評価され促進されるべきものの妨害をする。それと引きかえに,大学が競争を克服するといったたてまえで,業績,ネットワーク,展望,プロジェクトを宣伝するパンフレットのほうは,豪華,大げさ,無内容になっていく一方である。(p.88)

 

 今日のオーストリアやドイツの「大学改革」「教育改革」に対する著者リースマンの批判的言説は,積年の憤懣に熱情の沸騰が相まってか時に直截的に過ぎるきらいもありますが,「改革」という〈呪文〉に向けた厳しい眼差しには大いに触発されるものがあります。

 

 本書でもたびたび批判の矢面に立たされていた「競争」や「評価」といったものの導入を煽りながら,それがかえって教育現場の混乱を招来しているという意味では,むしろ日本のほうが事が深刻なのかもしれません。

 

 安倍政権が躍起になって進めている「教育改革(政策)」の欺瞞性を顕かにするためには,そのような眼差しが必要であろうことを確認しつつ,そろそろまとめに入ることにしましょう。


 1960年代前半から教育の崩壊が声高に叫ばれ,それに後続して教育改革が着手されることとなったが,それ以降ずっと大学は,みずからに固有の使命について自覚的に考察する機会を持たなかったということである。(p.103)

 

 「ブレンド型学習」(Blended Learning)に始まり「ダイバーシティ・マネジメント」(Diversity Management)を経て「知の収支決算表」(Wissenbilanz)にまで至る企業イデオロギーの最後の店晒し品が,最新の流行として大学に売りつけられるとしても,誰一人としてそれに対し声高に異を唱えはしない。こうした現況が,時代的風潮に対する制度化された知の抵抗力に関する一切を物語っている。そんなものは存在しないも同然なのである。(p.116)

 

 最新の改革によって,これまで基本的に公共団体から資金を提供されてきた大学が,公共性の代表ではまったくない監査役に対して責任を負う企業として定義されるようになり,これと相即的に学問が,計画を立てる際に人間の陶冶という理念などもはや必要とはされない国際的な企業として解釈されていくのである。(p.137)

 

 現在の改革概念は,浅はかにも新しいもの,とりわけ未来に全幅の信頼を置く。改革が話題にのぼるところでは,手に入れようと思い描く「未来へのチャレンジ」であるとか,改革を通じて開かれるに違いない「未来のチャンス」,あるいは,改革によって組織や機構に割り当てられるであろう「未来の権限」といった物言いが溢れかえっている。(p.162)

 

 熱狂的な改革支持者は,恒常的に改革することを求める。そうすることによって改革者は,人々をつねに忙しなく改革へと駆り立て,改革者が当の人々に表向きは期待していることを,彼らが実際に履行するのを妨げるのである。改革のプロセスに人々を巻き込むことほど,各人の思考を麻痺させるのに適した機会はない。(p.171)

 

 改革のための改革にはいかなる根拠も必要ない。だから学者たちは,教育や研究に労力を傾ける代わりに,絶えざる組織の改革に精力を注ぐことになるのであろう。そうなると彼らはすぐさま,教育や研究に投入している労力があまりに少ないと非難され,そしてそれゆえに,大学が今すぐにでも改革されなければならない,云々となるのである(p.171)

 

 こうして全体を通観してみるとき,本書があたかも〈日本〉の「大学教育」や「教育改革」の状況を批判的に分析しているかのような錯覚に陥ります。

 

 それほど多くの共通点が見出されるわけですが,さらに,両者が抱えている諸問題の底流には,〈新自由主義的なイデオロギー〉が水勢を増しながら流れ続けているという点をこそ強調しておきたいところです。

 

 とりわけ教育の分野に見て取ることができるのは,われわれは知識社会へと向かう代わりに,管理社会へと急速に移行しているという事実である。現在「自律」という概念に基づいて話し合われることのほぼすべてが,各人の自己制御を通じて支配が遂行される社会を形成せよとの命令に服している。……自由主義的な世界像に依拠していると自覚する時代精神のなかで,最も広く用いられる〔学問の自由という〕言い回しの中に,選択の余地はないという文言が属しているのは,かなり不条理なことである。自由の名の下で,自由は不可能だと宣告されているのである。(p.178)

 

 かつて教養に結びついていたのは,ある時代に確実だと思い込まれているものに備わる幻想的な性格を証し立てるという要請であった。これこそ効率的だと思い込まれているものを高々と掲げ,あらゆるものを経済的な見通しの下に服従させることができるという考えに幻惑されることで,思考の自由を切り詰め,幻想を幻想として認識する可能性をみずから閉ざしてしまうような社会があるとすれば,そうした社会は,いかに多くの知識がその貯蔵庫に集積されていようと,反教養にその身を捧げてしまったのである。(pp.180-181)

 

 そして,いよいよ……

 

 教育改革とともに教育が崩壊していく〜 (p.159)


ことになるのです。

Comments


©2019 by 'ANO'I PLANNING。Wix.com で作成されました。

bottom of page