大学教育のありようと「教養」の行方を追って(3)
- Naoyuki Himeno
- 2019年10月30日
- 読了時間: 5分
更新日:2020年4月16日
現在,日本の大学は(短期大学や専門学校も同様に),そのほとんどが生き残りをかけた競争を余儀なくされる厳しい状況下にあります。
国公立・私立の別を問わず,都市部でも地方でも,あるいは一流かそうでないかといった学校間ヒエラルキーに関係なく,活路を開かんとする良策の立案が急務となっています。
いわゆる四文字学部の新・増設や短大の四大化と女子(短)大の共学化,「教養」課程・コースの廃止・縮小に絡めた改組の動きは,90年代からすでに活発化しつつありましたが,2000年代に入ってさらに加速しました。
また,学内・学外施設の拡充やリノベーションをはじめ,メディアを利用して伝統や実績を強調するPR活動,即戦力養成を旗印にした企業とのタイアップ戦略,実学プログラムに特徴をもたせたカリキュラム編成,外国人留学生の積極的な受け入れ等々,学生(数)確保に向けたさまざまな手立てが講じられています。
わが国の18歳人口は,1992年を境に低減傾向にあって,2031年には100万人の大台を割るものと見られています(文部科学省「高等教育の将来構想に関する基礎データ」,平成29年4月11日)。

「18歳人口の減少」への危機感が,諸々の取り組みを展開するにあたっての基点として機能しました。
しかしながら一方で,右肩下がりが続いていくデータの指し示す未来に対して生じる不安と重圧は,有効な「改革」の糸口を見出すための本質的な議論を忌避する都合の良い口実ともなってしまっているようです。
さて,これまでランダムに挙げた限られた資料からだけでも,今日の日本の(大学)教育」が直面する課題が垣間見えてきます。
同時に,次のようないくつかの〈問い〉を立ててみることも可能となります。
⚫「教育改革」の掛け声だけがむなしく鳴り響いているようにしか見えないのは何故なのか?
⚫経済効率や実学重視にとらわれるばかりの「教育改革」の実相とは如何なるものなのか?
⚫大学教員が研究者としての本来のあり方から乖離しつつあるのは何故なのか?
⚫大学教員の官僚化が進行していると言われるのは何故なのか?
⚫大学生の基礎学力の低下は「教養」科目の大幅削減等に見られる教養課程の変容にも一因があるのではないか?
⚫本来的な「教養」というものが社会から失われつつあるのではないのか?
これらの〈問い〉に向き合うにあたってのヒントを探る意味から,迂路を行くようにはなりますが,もう少し別の角度から「大学改革」と「教育改革」の問題を眺めてみることにしましょう。
「(大学)教育」が「改革」を必要とする社会的・制度的な背景は,当然日本と他の国々とで違っているわけですが,課題生出の内在的な要因というレベルでいえば世界共通の語りが成立しそうです。
そこで,最初に,「大学改革」「教育改革」の事情が日本と似ているとの指摘がよくなされているドイツ語圏の国々を取り上げることにします。
それに続けて,後にフランスの事情を見ていきます。
まず登場してもらうのは,コンラート・パウル・リースマン(ウィーン大学哲学科教授)が2006年に著した『Therie der Unbildung』の全訳『反教養の理論ー大学改革の錯誤』(斎藤成夫・齋藤直樹訳,法政大学出版局,2017)です。

本書は,ドイツ語圏を越えて数か国語で翻訳出版され,この種の学術書としては異例のベストセラーとなりました。
論旨が散漫になって行きつ戻りつでぎこちない印象を受ける箇所はあるものの,随所に魅力的な知見が散りばめられ,この先「教養」を語るうえで重要な示唆を与えてくれそうです。
「反教養(Unbildung)」という概念は,すぐには理解しづらいところもありますが,訳者の解説には,アドルノの『半教養の理論 Theorie der Halbbildung』の「半教養(Halbbildung)」とニーチェの『反時代的考察 Unzeitgemäße Betrachtungen』の「反時代的(Unzeitgemäß)」から生み出されたとありますから,二つの著作を意識しつつ通底する批判的精神を受け継いだ形のものだとすると,それなりのイメージをつかむことはできます。
また,副題について,「日本の大学を取り巻く昨今の由々しき状況をとりわけ考慮し」(p.201)て,原著の"Die Irrtümer der Wissensgesellschaft”(「知識社会の誤謬」)をあえて「大学改革の錯誤」とした,という断りを入れてあるところを見るにつけ,今日の「日本の大学を取り巻く昨今の由々しき状況」に思い至らずにはいられません。
「訳者あとがき」に,本書の特長がうまくまとめられています。
(原文は改行がされておらずそのままでは読みづらいので,適宜改行してあります)
本書『反教養の理論』は現在世界規模で行われている経済効率・実学重視の教育改革に対する,当代屈指の哲学者による過激な批判の書である。
表だった批判の対象となっているのは,現代の教育改革ないしは大学改革を代表とする種々の概念,すなわち,教育のモジュール化,就業者継続教育(第二章),国際学修到達度調査(PISA),国際大学ランキング(第四章),Eラーニング,ブレンド型学修,アンケート型授業評価調査(第五章),ヨーロッパ高等教育圏,ヨーロッパ単位互換制度(第六章),エリート教育,センターオブエクセレンス,エクセレントクラスター(第七章),知識マネジメント,知識の決算表(第八章),新学修プラン(第九章)といった,いわゆる「世紀の改革」を形づくっているさまざまなコンセプトである。
こうした(昨今わが国でも頻繁に耳にする)美名に彩られた教育改革に対するリースマンの執拗かつ苛烈な批判の眼目は,それらが統一性を欠いた場当たり的な施策となっているがゆえに,見かけの華やかさとは裏腹に実質的な成果をもたらすものとはなっていないという(これまたわが国でも同様な)現状を糾弾することにのみあるのではない。
本書を一読すればただちに明らかなように,そうした同時代的な批判を根底において支えているのは,時代を超えて妥当し続ける普遍的な教養の理念,すなわち,知識の修得を通じて人間になおも潜在する多様な可能性を開花させながら,個々の時代に制約された人間のありようを超えた新たな人間性のかたちを創出し続けるという,そうした本来的な教養のあり方に対する畏敬の念である。
しばらくは,ここで取り上げられている種々のキーワードに拠りながら,著者リースマンがヨーロッパの今日の「大学教育」を,どのような視座からどのような形で批判しているのか,主な論点をなぞっていきたいと思います。
(注:以降掲げる引用文中の太字・下線等は,筆者が書き加えているものです)
Comentários